小説とは呼べない出来
★☆☆☆☆
登場人物達が現在の口語で会話するもはまだ許せる。
話につまると自分の歴史観をトウトウと述べるものやむを得ないだろう。
しかし、だ。
小説を書くうえで素人がついついやってしまうことに「時制を無視して、話が行ったり来たりする」というものがある。
原因は構想が不完全だからなのだけれど、なぜ構想が不完全になるかというと、書きたいことがあってもそれを整理できていないからだ。
また歴史小説でやってはいけないことというか、やったら間抜けなことに「呼称の整合性がとれていないこと」と「外来語を使うこと」というものがある。
「信長公」と読んでいた人がその4ページほどいったところで「信長」というのでは、感情移入していけない。。
「」緊褌一番、ハッスルしたのだから」、キンコンなんて難しい表現を知っているならハッスルも同義語ぐらい知らないのだろうか?
「頭にエネルギーがムクムクと充満してきた」、村山知義さんこそ、頭にエネルギーを充満させてほしい
「確かにあんなアンバランス(不釣り合い)男を見たのは初めてだ」わざわざ括弧書きで日本語を書くという謎の表現!
いちいちあげていたらきりがない。
村山和義忍び絵巻の第2巻
★★★★★
信長の死と秀吉の天下、五右衛門が淀城で秀吉の命を狙って失敗し三条河原で釜煎りになるまでが描かれます。
五右衛門を中心にしてはいますが、家康配下の初代服部半蔵の方が活躍度は大きいです。五右衛門が捕らえられるのは、秀吉を生き長らえさせ、悪政を続けさせることで豊臣家から人心を離れさせるための家康の遠謀となっています。
切支丹の影響も強く描かれ、五右衛門も半蔵もマリア像に魅せられている点も面白いです。
また小説の冒頭は第1巻のあのひとの変わり果てた姿・・・・
大局的には、信長の死後、秀吉がいかにして支配体制を確立させたか、対する家康の腹の中は、というところが、五右衛門を中心とする忍者達の目によって見つめられ綴られていきます。
最後、五右衛門はなぜ秀吉を捕らえたのか、家康はなぜ秀吉を殺さないのか、半蔵と五右衛門という同じ忍者なのに違う二つの生き方を選んだお互いへの複雑な思い・・・
五右衛門の釜煎りは、それらを全て飲み込んで大団円とします。