漢字を取り除いて素朴な日本文化に迫る。
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中国文明が生んだ漢字というのはもちろん偉大な発明であるし、それを大胆かつ繊細に取り込んだ我々の祖先の知恵と労苦も大変なものである。しかしそれによって我々のことばや文化が「漢字化」されることで、その本質を見出しにくくなったのも事実である。
本書は多くの実例をかなで読むことで、その本質的な意味や用法、そしてそこにこめられた息遣いを明らかにしていく。ともすれば「トンデモ」や当たり障りのない茶飲み話に終始しかねないテーマもでもあるが、縦横無尽、古今東西の知識と深遠な洞察から、発見と驚きにあふれて結論が飛び出してくる。
「かく」が「書く」「掻く」になるのは、英語・ラテン語のscribe(刻みつける)→describe(記述する)などと考えあわせると、興味深い。日本独自の文化だけでなく、人間一般のことばや文化に通じる考察であるといえよう。
大和ことばのルーツを「音」で迫る。読み方が同じ言葉は「仲間ことば」だった!
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前著『ひらがなでよめばわかる日本語のふしぎ』を文庫化に際し改題・加筆訂正したものです。読み方が同じ(似ている)言葉にはちゃんと理由があり、実はルーツが同じ「仲間ことば」だったのだということに気付かされます。
例えば、"目・鼻・歯"も"芽・花・葉"も、"め・はな・は"、人間の身体の部分と草木の部分との共通点に注目した呼び方だったのだが、違う漢字が使われることになって、その共通点が覆い隠されてしまったのだそうです。"燃える"と"萌える"もルーツは実は同じ。"娘"も"息子"も"結ぶ"も「むす」に共通する意味(発生する)がある… このような「やまとことば」の語源に関する話が分かり易く書かれています。"目から鱗が落ちる思い"の連続でした。(@o@)
しかし「どんな字で書くの」という「どんな字病」(柳田国男)に罹ると、同じ(似た)読み方の言葉に気付いても「漢字で書くと別だ」という固定観念に捉われてしまい、古代日本には存在した筈の共通点が見えなくなってしまうという訳です。本書を読み終えると、大和ことばならではの"言葉の柔らかさ・美しさ"を再発見できました。高校の古文の授業もこんな風に習いたかったなぁ。
音声から語源に迫る、という観点は日本語(大和ことば)に限らず、外国語学習でも大いに活用できそうな話です。実際、英語の場合、ラテン語・ギリシア語・ゲルマン語など多くの言語が入り混じっていますが、このうちゲルマン語由来の言葉の多くは読み方(音声)がイメージを表していることが多いように思えます。(例えば gl-で始まる言葉(glass, glad, glitter, glory, ...)は光り輝くイメージ、など) 言語学者・イェスペルセンが「文法はまず第一に音声を扱うべきであり、文字は二次的にのみ扱うべきである」と主張したことは本書の主張とも共通していますね。