たいへんオーソドックスで誠実な議論である。だがしかし、と思う。
著者によれば、ここで想定されている「市民」とは、「教育と知識と一定の富と、そして認識力と判断力をもつ広範な自立的市民層」である。別のところでは。完全な市民イメージを想定せずとも「それなりの市民」でよいのだ、とも言っている。なんだか閉店間際のスーパーのような「市民の安売り」という気もするが、それはともかくとして、私の実感からすると、それもまたずいぶんと“高い”基準である。この基準を満たさない人々は、現代日本には相当いるのではないだろうか。例えば、パラサイトシングルやニートはまずアウトであろう。
また、この基準を満たす「市民」でも、その「認識力と判断力」をもって、討議デモクラシーの場に動員されることを忌避するかも知れない。「だいたい、どうして政治の決定に正統性を付与するために、私たちがわざわざ呼び出されて、興味があるかないかわからないテーマで議論しなければならないのか?」という発想は、不合理だろうか。
「ツー・トラック制民主主義」という意図はわかるのだが、その“手段”として「市民」を動員しようという発想が透けて見える。その点は、読んでいてあまり気持ちのいいものではなかった。
90年代以降の市民社会への関心の高まりは、
以上のような経験に根ざしている。
本書は、「市民」や「市民社会」といった概念の変遷を
丁寧に説明してくれる。
従来の市民社会と区別する形で、最近「新しい市民社会」論が盛り上がっている。
これは、具体的には自発的結社の促進をもって成熟度を測っている。
しかし、結社だけでは、依然不十分で、
さらに市民が積極的に政治に関与していくことが必要である。
そこで重要になるのが、ハーバーマスによって説かれた
討議デモクラシーであるが、本書はさらに議論を進めて、
欧米の諸制度を紹介している。
日本では、裁判員制度に対して、市民は消極的だが、
そのような態度こそ、独裁を導くのではなかろうか。
第4章は少し本旨と乖離しているように思えるが、
著者の専門でもあるヨーロッパ政治史を振り返るとき、
ポピュリズムへの警告は忘れてはならないのもうなずける。
ポピュリズム批判(4章)を動機として本書は書かれたような気はするが、特に日本のように下部の市民団体が政党や強力な政治組織の(事実上)下請け機関に過ぎないことが多い場合に、いかにして「市民の政治学」を成り立たせるのかについては、(もしそれを目指したいと言うのであれば)より真剣な議論がされなくてはならなかったはずである。でないとわれわれは権力と個々人が結びつく(ナチス:ポピュリズム)か組織化されて権力と結びつく(ソヴィエト体制)のどちらかの選択を迫ることになりかねない。その二つの選択肢を迫られたら両方拒否するのが普通の人間の対応ではないだろうか?
大きく複雑化を続ける現代社会の問題点を効率よく(平和的に素早く的確に)解決するには、現在の民主主義、すなわち代議員制には限界がある。例えば、科学技術政策など重要な懸案は、官僚の主導のもと専門家からなる審議会などの形式的な承認を経たあと、世襲議員ばかりになった国会で法案化される、というプロセスを経る。しかしながら、そこには、フツ~の人、「それなりの市民」の感覚が入り込む余地はなく、その意味で、民主主義の本義と乖離している、というような例えが的確であろうか。それを克服するための方法として、討議デモクラシーという新たな政治形態が模索されている。今、導入が議論されている陪審員制度などがその例であろうか。つまり、ランダムかつ強制サンプリングされた一般市民が、特定の問題について、一定期間議論し、それを政治に反映させるといったものである。
興味深い動きではあるが、日本国内でそれを実現するには、サラリーマンの労働環境を変革させなくてはならないだろう。現在のように、サービス残業を前提に成り立っている社会では、到底、討議への強制参加は不可能のように思われる。