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アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

価格: ¥1,260
カテゴリ: 文庫
ブランド: 河出書房新社
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フロイト批判は的外れ ★★★☆☆
「思考の紋章学」の「姉の力」で渋沢龍彦は「日本人の心性の奥に潜む兄妹相姦願望」にふれている。日本人はエディプス・コンプレックスよりこっちのほうが強いんでは?自らを省みていってるのだが何でマリア・シャラポアを熱狂的に好きなんだろ?どうも根性のある「強い」女性に惹かれる傾向が。それならドイツのグラフでもいいわけだが。高い鼻が。ジェーン・フォンダとか。フランソワーズ・アルディは4歳年長だが「自立」した強い女性という印象。よくマザコンというんだけど俺は全然ないね。エディプス・コンプレックスが。夢も見たことない。自分のことを一般化するつもりはないが。ないものはない。日本人はほんとはないんでは?「姉の力」が正解という気が。何で自分がAさんと一緒だと「自然」「気が楽」「癒される」「甘える」のか不思議でならなかった。もっともAさんはいい迷惑だったろう。
もっと使えます。 ★★★★★
他のレビュアーの方が、「本は使うモノ」と言っているのは、記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)のp.21に書いてあることでしょう。

「一冊の本を読むには二通りの読み方がある。一つは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場、これだとどうしても本のシニフィエを追い求めることになる。・・・こうして注釈が行われ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なくつづけられるわけだ。
 もう一つの読み方では、本を小型の非意味機械と考える。そこで問題になるのは『これは機械だろうか。機械ならどんな風に機能するのだろうか』と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。・・・説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。」

ドゥルーズが求めている読み方は、無論後者のほうにあるわけです。本書を「電気掃除機を使うように読め」というわけです(決して「ゲーム機を使うように」ではない)。

たしかにそれは正しい読み方であるし、宇野氏の翻訳方針は正しかったと思います。現に私は市倉訳では1章も読み終わらなかったのに、この訳で完読することができました。それも電車の中で。

家電を使うようにこの本を読んでほしいということは、逆にいえば「取扱説明書を読んだだけでわかったつもりになるな」という戒めでもあります。80年代、「ニューアカ」ブームの中でこの本がもてはやされたとき、ほとんどの人は取説(注釈書)を読んだ程度でこの本をわかった気になっていました。そのくせ本当はだれもわかっていなかったから、翻訳が出るまで10年以上かかってしまいました。市倉訳が出たときは快挙だと思ったものです。

しかし市倉訳は本当にわからなかった。氏はそもそもヘーゲルの専門家でした。だから本書を訳すのには不適当だったといいたくはありませんが、本書をアカデミズムに回収しようとする訳し方であったといわなければなりません。

日本も、ようやく最近になってドゥルーズ/ガタリを受け入れる素地が整ってきたといえるでしょう。宇野訳は整備された条件の一つです。書物も大学のアカデミズムも、みんな粉々になってインターネットの中に溶けてしまう、そんな時代を生きなければならない若い人には、ぜひ薦めるべき本です。まったく古びていません。
現代思想が散文詩のように読める ★★★★☆
ドゥルーズとガタリの思想がロートレアモンの『マルドロールの歌』のように(楽しく)読めます。文学好きの人や「哲学ならニーチェ」という人には宇野訳を、ヘーゲルやハイデガーを読むように読みたい人には市倉訳アンチ・オイディプスをお勧めします。
市倉訳との比較について ★★★☆☆
あくまでも個人的な感想ですが、やはり市倉訳の方がわかりやすいと思います。宇野訳は、もしかしたら、ドゥルーズ=ガタリの意図に忠実なのかもしれません。しかし、日本語として読みにくいのは、僕的には厳しい。所詮言葉自体が違うのだから、リズムまで再現することは不可能で、もしそれを感じたいのならば原著をそのまま読むしかないと思います。

テリトリアリザシオンを「土地化」と訳すことについても、市倉ゼミで、学生たちと徹底的に討論した結果、範囲を確定させるような「領土」「属領」という言葉は、ドゥルーズ=ガタリの意図するニュアンスを殺してしまうのでは、という判断で、選ばれた訳語だと聞きます。

初心者の方には、文学的なニュアンスを大事にした宇野訳よりも、哲学的な論理性を重視した市倉訳を薦めたいと思います。
酷評のし過ぎでは ★★★★★
下の方に酷評が載っているが、言い過ぎだと思う。市倉訳のほうに、原著にはあったとさ
れるリズム感が欠けていたことは、ずっと前から指摘されてきた。その点宇野訳は、この
大著を、あたかも「一つの文学作品」として読み通せるようにしたという意味では、良訳
の部類に入ると思う。文章も「機械翻訳」という評言がどこから出てくるのかまったく不
明なほど、ひとつひとつの文も、段落ごとの内容も、日本語として十分意味が通っており、
解釈を加えずにここまで訳せるものではない。

「そっくり一文が抜け落ちている」のが事実だとしても一般の私たちには確認のしようも
ないのだが、反復文が極めて多いこの本では、通読して大意をつかむという読み方をした
場合、仮にそういう事実があったとしても、本の言わんとする方向が変わってしまうほど
重大な問題になるとは考えにくい。

今、文学作品としてはとか、大意をつかむという読み方ならと書いたけれど、まさにこの
本の良いところは、あの大著を、概要としては何を伝えようとしているか、とりあえず通
読してみる気にさせるところであり、そういう読み方をするなら、十分役に立つ。文庫本
というハンディな作りなので、少しずつ読めば、必ず最後まで読み通せるし、とにかく著
者たちが何に反対し、何を擁護し、どのような世界観を提示しようとしているのかという
軸の部分は十分つかめるはずだ。(ただし、上巻の注が下巻にある点は不便きわまりなく、
出版社に猛省を促したい)

この本は、長年、通読もされずに適当な引用をされたり、批判されたりしてきた歴史があ
る。宇野訳で、とりあえずその点が解消されたのは喜ばしい。術語については、哲学的に
厳密を期したい専門家や、どうしても納得のいかない箇所があった場合は、原著を読むか
市倉訳を必要に応じて参照すればよいと思う。この本の最大の功績は、とにかく「あの
『アンチ・オイディプス』が手軽に通読でき、概要がつかめるようになった」という点に
あるのだから。

こんな試みが可能なら、ついでに『千のプラトー』も文庫化すべきだと思う。
(下巻と同じ文章)