現代の金融化は我々の“生”のエンクロージャーの過程である。
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いくつかの論点というか、当方の不勉強ゆえの疑問点もあるが、本書の金融経済=ポスト・フォーディズム論の切れ味は際立っている。
現代金融化とは我々の“生”の金融化であり、それは近代前期のエンクロージャーと何ら変わらない、生の囲い込み運動である。マルクスの所謂<本源的蓄積>の理論は、今日において正しくも、我々の生を囲い込むことによって結果的に同じプロセスを辿る。
今次の金融クラッシュは、実体経済から乖離した金融魔術(擬制経済)によってなされたのではなく、この金融化プロセスこそが形を変えた資本の蓄積にほかならない。フォーディズム下の工場内で管理された労働は、言語コミュニケーション力を要求する「生の全体を要求する」労働へと変貌した。今日、労働組合が機能不全に陥っているのは、労働者の意識の希薄化などではなく、こうした“金融化”した“生政治的労働”化の必然的な帰結に過ぎないのである。
いまや、“金融化”は“戦争”よりも効率がよいのであって、戦争概念の更新をも我々は求められている。憲法理念からしても、第25条の基本的人権が蔑ろにされている現状は戦争状態なのであって、単純素朴イノセントな「戦争さえしなければよい」式のお気楽な御仁は、本書によって叩き起こされるであろう。
我々の日常が搾取され続ける。労働時間=生の時間全て、というわけであり、我々は皆、健康で文化的な時間などを持てなくなっていると言ってもよい。
タイトルの『資本と言語』の意味、特に“言語”の意味は、金融化プロセスと労働の変容に関わる。
この相関、この意味の解明から我々は始める必要がある。
読者はまず、巻末の監修者・水嶋一憲による解説に目を通してみることをお勧めする。
巻頭序文はマイケル・ハートであって、著者のマラッツィは『帝国』『マルチチュード』のアントニオ・ネグリとも近いようだ。
ネグリ、ハートの世界的に話題になったこれらの著書の判断は躊躇するが、本書の比較的簡潔・明快な記述は、今日の金融・経済・労働関係を解明するものとして説得力があると思う。