モノはないが、野球にかける思いはある
★★★☆☆
戦中、終戦直後の主立った高校・大学の部史にあたったほか、著者が新聞記者、球団代表として蓄積した野球人とのやりとりも交え、まとまった本のない戦中戦後の球史を描いている。まともな用具のない中で、レガースなしで投球を受ける捕手を美徳とするムード、漁網のネット、防空壕に隠したボール、生木でいきなり反り返るバットのほか、米や醤油を担いで臨んだ(しかも盗まれた)甲子園など、具体的、詳細に語られる代用品の劣悪さと「それでも野球がしたい」と語る野球人たちの言葉が、本書の質を高めている。
以下は、「モノはなくても野球に打ち込み、焦土から野球を復活させた苦難」を美談として称えようとする本書の本筋からやや外れる感想。もちろん、軍や国家主義官僚の暴走が主たる原因なのだが、役所が「敵国の競技をやっては敵愾心が沸かない」というばかげた理由で「このスポーツは不健全」と判断し、「当局の意向」なので「自主的に止めて欲しい」という行政の流れは戦争は終わっても変わらないなあ、と感じる。用具もグラウンドも何もない中で「戦時中の野球の灯を消すな」「素足でもやる」という思いで、対外試合が禁止されても練習に打ち込んだことが、戦後から今日の野球競技レベル発展の礎になった反面、戦前の国家主義の中で、野球発展のために持ち出された「野球を通じて敢闘精神を発揮し…」という大義が、「体が使えなくなってもこの一戦にかける」ようなことを美徳とする「野球道」的に残ってしまっているような気もした。
これも直接関係ないが、今月の中公新書は5冊中、終戦ネタが出るのが4作。当然、65年の節目を狙っているのだろうが、動物、野球と器用にテーマを分けてるなあ…と感じた。それと、本書で著者のライバル紙に「誤報」「名誉毀損」と厳しい批判が多めなのが、客観性をちょっと薄くしているような感じもした。