疋田桂一郎と新聞というメディアの本質
★★★★★
朝日新聞記者として活躍し、優れた記事を書いた疋田桂一郎氏について、その仕事を
時代ごとに分けて記事・著述をたどりながら、活躍した当時の実際の新聞報道について
再現し、将来の存亡についての岐路に立たされている新聞というメディアについて
ジャーナリズムの点から考察する素材を提供することを目的にした書になります。
1950〜60年代、70年代、70年代後半〜80年代の3章に分けて構成され、
各章の最後には各々氏に縁のある人による当時の新聞報道に対する論考が載せられています。
全体を通して、疋田氏の仕事がいまだ色褪せず、むしろ現代の新聞記者や新聞報道の
あり方について鋭く、かつ的確な指摘をしているように思えてなりません。
既に古くは上前著になる「支店長はなぜ死んだか」でも中心に取り上げられている、
ある事件記事の報道をめぐる検証についても疋田氏の分析が基になっていますが、
そのような氏の優れた洞察力は20以上年も前から、現在も急速な多様化が進む
メディアの中で新聞記事の役割の変化と自己変革が無き場合には信頼の低下を
予測し、憂いていたことが窺えます。
本書は一般の新聞読者側からも新聞記事の読み方、捉え方と新聞報道の問題点を
俯瞰する意味で非常に有益なものとなっているので、是非一読をお奨めしたいと
思います。
新聞記事を書くことの責任
★★★★★
「管理職にしては惜しいと考えられた大記者」疋田桂一郎。本書は彼が書いた記事から選りすぐりのものを集めたものだ。疋田氏は、無味無臭、真水のような文章を書くことを目指したというが、どの記事も抑えた筆致であるにもかかわらず、記者の熱いものを感じとることができる。
「ある事件記事の間違い」では、幼い娘を餓死させたとしてエリート銀行員が逮捕され、判決の後自殺した事件について、ミステリーを読み解くように記事を検証していく。そして警察の供述調書にウソがあると結論する。記事を正しく書いていれば、会社員は死なずにすんだのではないだろうか。新聞というメディアの影響力の恐ろしさを感じる。
また疋田氏は記事の中に(まるかっこ)を多用することを批判する。たとえば首相答弁の「(憲法改正の動きには)私は加担しない」などのように、補足的に使われるものだが、氏はわかりやすくする装置としては、かえってマイナス要素だという。私も同感である。今ではテレビの字幕でもこのような(まるかっこ)の使用がよく見られるが、読んでいてわずらわしいだけだ。
このような問題提議をしてきた記者がいたことを、ジャーナリストは忘れてはならないだろう。