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石牟礼道子―椿の海の記 (人間の記録 (104))

価格: ¥1,890
カテゴリ: 単行本
ブランド: 日本図書センター
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水俣という土地に生きているということ ★★★★★
この著で描かれているのは、『苦界浄土』第一部によって描かれているチッソによる公害(水俣病)によって破壊される以前の地域の人々の生活世界である。

これといって特別劇的なストーリーなどもなく、いわば一地域にくらす「名もなき」人々が営む生活を、幼少時代の著者の目線で描かれていく。歴史上に残るような事件もあるわけでもなく、後に大規模な公害を引き起こすことになるチッソの進出や資本主義の浸透等による近代化の影の部分がじわじわと迫りながらも人々が地域、自然に逆らうこともなく、一体となりながら生活が営まれている様は、現代の日本社会における消費生活に慣れた人間(私も含めて)には、逆に新鮮に感じられる。それは、ただ外から見た生活上の風俗や慣行が記述されているのではなく、その地で生活する一個人の目から、実感を伴った記述となっていることが貴重だ。

というのは、この著に描かれている自然や生活の描写が、印象的であり美しい。このことは、著者のこれ以外の著書にも通ずることだが、この著に描かれていることはもしかしたら平凡な日常生活において見すごされることの多いような類のものかもしれない。しかし、記述される言葉・文章を読むとそのようなものが、想像以上の豊かさを伴っていることに気付かされる。もしかしたら、日常生活の中では取るに足らない、当たり前のものかもしれない。また、現代の「進歩」した社会においては、前時代的な古い、「遅れた」ものにすぎないのかもしれない。

しかし、そこには現代の日本社会における人々の生活では想像できないような、人々の心の豊かさが存在していた、ということに気付かされる。現代日本の物質的刺激の多い消費社会とは異なる、平々凡々のありふれた日常の中でも、心豊かに力強く生きている人々の姿が心打たれるのである。

そして、そのような世界を記述することが出来る著者の言葉にも、示唆されるものが多いように感じる。というのは、言葉が人間の心身と密接に結びついたものであることに気付かされるからだ。身体あるいは心の中の普段は言語化されない感覚や感情までもが言葉として語られている。それは理屈として正しいと理解できる言語とは別次元のものだ。記述される人々やその生活、自然といったものに、太古の昔から脈々とつながっているかのような時間的(歴史的)な重さを感じさせる。それはまるで遥か昔から幾度となく繰り返されてきた輪廻の果てに存在し、これからも終わることなく繰り返されるであろう命の永遠さの中に、現時点において存在する人々や自然が、限りある儚い命の中で生きている、という真実に気付かせてくれる類のものだ。加えてそれらは作為も虚偽も、誇張も感じさせない。

日本語が時間的・空間的な日本の風土に結びついている、というのはこういうことか、と感じさせるものだ。と同時に、読み手である自分の中にもそれらの言葉に共感し、それによって自分の日本の風土の中で生かされている、ということに気付かされる。記述されている言葉から著者が感じたであろう空気や肌触り、ニオイまで漂ってくるような感覚を覚える。後に大公害事件が勃発する水俣あるいは不知火海沿岸という「土地」がどういう場所であったのか、それは決して日本列島にどこにでも存在するであろうかのような紋切り型の「漁村」というイメージを悉く壊してくれるもので、長い年月にわたる固有の生活の積み重ねの結果存在しているという重い事実に気付かせてくれる。
それは、水俣という土地で長年地に足をつけて生活をしてきた著者だからこそであり、後にこの地において引き起こされる大公害事件がどういったものをこの地にもたらしたのか、人々の生活を破壊したのか、逆に鮮明にしてくれる。

そういった記述の数々は読んだ後に自分自身の周りの自然や環境に対する見方、感覚、感情を変化させる力、人を変化させる力をも持っているという点で優れていると思う。現在、多数の著述家が活躍し膨大な量の著書が出版され消費されているが、それらとは一線を画す、消費するだけでは終わらないものを読んだ者に残すであろうと思う。