本書は、「ストーカー」というきわめて現代的なテーマを取材する過程で、「権力の腐敗」というもう1つの時代の病弊をえぐり出すに至る放送ジャーナリストの活動を、時系列的に記述したドキュメントだ。番組制作という時間的な制約もあって、冒頭から緊迫した記述が続いている。警察への質問状提出、その回答と当事者取材との食い違い、そして放映。錯綜する警察の再回答と展開する両者の攻防はスリリングなものだ。
本書でもう1つ重要な役割を果しているのが、取材者と被取材者(被害者の両親)の関係である。この事件は、被害者のプライベートに関する、根拠のない報道が異様に過熱した事件でもあった。その経緯から、マスコミに心を閉じる両親に対して、取材班はどんな行動をとればよいのか? 父親に宛てられた鳥越の4通の手紙から、読者はマスコミの抱える課題もまた、感じ取るに違いない。(今野哲男)
恥ずかしい話だが、わたしはこの事件をごく普通の痴情の縺れくらいの事件だと思っていた。新聞を読んでも、他にも似かよったことが多く、そういう記事を読んでも何かを変革するためのエネルギーとしての新聞記事とは思えないと思っていたからだ。
そして、電車の吊り広告の週刊誌の見出しをそのまま今回もまた、「そんなものか…」と鵜のみにしていたのである。
しかし、この犯罪が上尾署を含む警察組織の意図的な対応によって引き起こされたことが露顕したことは、逆説的ではあるが、何かを変革する強いエネルギーとなった。鳥越氏もそれを当初から意図し、被害者の尊い命を無駄にしないためにも、被害者側たる父親に立ちあがる勇気を求めたのである。
もうひとつ。
無責任な週刊誌記事、ジャーナリストとは名ばかりの人間に対しては、はっきりとそれらを拒否する自由をいかなさいといけないのだと思う。ジャーナリズムは取材の上に成り立ち得る。そう考えると、日中、テレビの同じ所に座って根拠のない話をしている人間がジャーナリストを名乗ることは羊頭狗肉も甚だしいのである。被害者を傷つけるような言動を公共の電波で行なったひとたちは、被害者家族にきちんとお詫びをしにいったのかどうか、それもとても気になった。
私が思うにこの著作の評価すべきは2つあります。まずはワイドショーのコメンテーターの発言がいかに無責任かということです。このことについては一般的に言われてはいますが、テリー伊藤や有田芳生の具体的な発言も載っており、それがどう実際と違うかが明らかにされている。彼らは一面において優秀なのだろうが、いかに人間の感覚的確信が頼りないものかということを示している。
もう一つは上尾警察の無責任ぶりである。我々は警察が守ってくれるからこそ、税金を払ったうえ、私的な暴力を振るうことを制限されている。しかしそのための警察が何もしなかったらどうなるか、ということの恐怖をまざまざと見せつけてくれる。そもそもストーカーのような変質者に困らされている人がいたら、助けよう、守ろうという気持ちが起きるのが、普通の人間である。そのような人間性がない人たちが、市民の警護者となっている。これではやったもの勝ちとなってしまう。このような事実を暴いている。
もしも文句をつけるとすれば、「著者」とは別のライターが執筆しているため、身内に対する「客観的な」賞賛が多少鼻につくことだろうか。