レム・コールハースという建築家をどう紹介すべきだろうか。あるものは彼をこの30年間の建築をリードした革新的建築家と評し、あるものは悪魔と取り引きをしたメフィストフェレスのような人物と評する。そしてある意味でこの建築家にそうした2つの顔があることは事実である。
現代の建築家はかつての建築家とはくらべものにならないほどに複雑な状況に取り囲まれるなかで建築に取り組んでいる。利益を追求する経済、グローバル化する一方でローカルな文脈の絡みついた政治、困難さを増す社会問題と実効性を求められる解決、こうした複雑さの結節点のひとつとして建築は存在している。そしてまた以前なら一笑に付されたような建物の形態が技術によって実現可能となり、解決にあたっての選択肢はとりとめなく広がっている。一方で解きほぐし難い困難な問題があり、他方で必要ならばほとんどあらゆる解決が可能であるという両極端が現代的な建築家が直面している現実である。コールハースはこの圧倒的なリアリティーと直面することで自らの建築を作ってきた。
あるときは度胆を抜くような大胆さと猥雑な露悪趣味をもって旧来の建築のイメージを打ち破り、あるときはロジカルかつ即物的な表現によって美的感性の矮小さをわらう。徹底的に可能性を使い尽くそうとする貪欲な姿勢は間違いなく建築家のひとつの典型であるが、人間性や調和のような古典的規範など彼は一顧だにせず、まして予定調和的均整からほど遠い。
そんな彼の日常(これほど彼に似付かわしくない言葉もあるまい)を追いかけ、その旺盛な活動を傍らでドキュメントする本書が読み物としておもしろいのは当然かもしれない。世界中を飛び回り有能なコラボレーターと協働しながら建築の常識を覆していく彼の活動は華やかには違いない。しかし同時にその八面六臂の活躍を支える超人的タフさを垣間見たとき、そうまでせねばならぬものかといささか辟易するのも自然だろう。コールハースは理想化され手放しに称賛される建築家ではなく、本書もそのデリケートなポイントを確かめようとしている。しかしいずれにしてもそのリアリティーを垣間見るとき、複雑な感慨と敬意を抱かざるを得ない。(日埜直彦)
「健全な人」なモデルとしてのコールハース
★★★★★
本書は、ある建物の形態が、思考の結晶として浮かび上がってくる過程についての目ざといレポートとなっているように思える。著者の瀧口さんが、ひとっ時も動くことをやめない、その思考の中心にいるコールハースに振り回される様子も実に面白く読めた。
注目を集めるような形をした建築物というものは、建築家の個人的な審美性が、クライアントの要求や予算などといった条件をくぐり抜けて発現してきたものだと思っていたけれど、コールハースのやり方は一味違うもののようで、その分かりやすい例として、ホイットニー美術館増築プロジェクト(計画は棚上げということらしいが)の建築の形がどうやって生まれたかについて書かれた部分、引用します。
---以下引用---
この増築でOMA(コールハースの事務所・若近若近注)がとったアプローチは、実にコールハースらしく即物的なものだった。マンハッタンの建築基準を、そのまま建築のアウトラインにしているのだ。つまり建物の高さ、日射線、セットバックなどの条件に基づいて、ぎりぎりに建設可能なラインを空中に描き、その内側を埋めるような方法でかたちが生まれたのである。しかも、当初の案は歴史的保存建造物に指定されているブラウンストーンのタウンハウスを維持するために、せめてその上空だけでも占拠しようと、建物がねじれながら聳え立っている。
この場合、そこにデザインされた建築のようなものは、実は建築基準が物質化してかたちをとったものだと思えばいい。作り手の恣意ではない、何か別のものがメカニズムとなって、その結果生み出されるかたち。このプロジェクトは普通ならば設計の制限になるものを逆手にとって、ちゃっかり材料にしてしまったわけだ。
それもかなり面白いと思ったが、「ところがね」と、この計画を説明していたスタッフがニヤニヤ笑い出した。コールハースが徹底的にこだわったのはその後だという。それだけ無謀にかたちを決めておきながら、最後に建物を50センチ高くするとか、1メートル引っ込めるとかいったことにかなり執着し、何度も何度も検討し直したのだという。彼は建築をつくるプロセスのどこで美的要素が起こるべきか、その枠組み自体を重要視する。
---引用終わり---
この場合は、建築基準、という条件が形をとったものになったわけだが、その他にも、クライアントの要求や建物に必要な機能といった外的な制約は五万とあるわけで、普通、設計者はそういうものに頭を悩ませるものなのだろう。ところが、コールハースは、むしろその制約を種にある形を生み出す。建物内で行われる活動がいくつかに分かたれるとするとそこに壁、収蔵品の内容の違いによってそこに床、といったように。
だからコールハースにとって制約はアイデアの源泉となっているわけで、クライアントに対しても、「私たちを尊敬するのではなく批判的に見て対等な立場で意見してほしい」、となる。瀧口もそうだったらしいが、コールハースは誰に対してもやたら質問をぶつけ、四六時中、人からの反応を引き出し、それを情報収集の一環としているという。
著者はこれを称して「チャンス理論」と言う。「チャンス理論」というのは音楽家ジョン・ケージや振付家マース・カニンガムなどが用いた方法で、例えば、サイコロを振って出た目の数によって動く方向を決める、といった偶然性に委ねた創作方法。コールハースにとっては、建築条件もクライアントの無理難題な要望も、思考とアイデアの材料となるというのである。
うろ覚えだけど、確か向田邦子は、脚本で行き詰ったとき、辞書の適当なページを開いてそこにある言葉から次の展開を考えてたらしいし、小説家奥泉光はいとうせいこうとの対談本の中で、執筆中に読んだ本の影響をどしどしとり入れる、みたなことも言っていた。また、フィリップ・K・ディックには、易の占いに従って書いた作品があったはず(確か「高い城の男」)。
私たちが見て、多少なりとも面白いと思える創作物には、必ず、そういうった「チャンス理論」的な部分が挟まっているのだと思う。要するに、個人の中にある個性の表現、といったようなものは退屈なものなのだ。
そういえば「奥の細道」だってチャンス理論と言えば言えるんじゃないのか。
この本、前半部はドキュメントで後半部には関係者インタビュー、最後にちょろっとコールハースのインタビューとなってて、ドキュメント部分に書かれていた大学の講演会のところ、ちょっと、えー?それはないんじゃない、となってしまった部分があった。その講演の内容についてあまりにさらっと流して書かれているんだもの。
もうちょっと詳しく書いてくれよ、と。
でも最後まで読んで感じるのは、そういう、コールハース自身の言葉・教え、といった部分も大変興味深いことは間違いないにしろ、コールハースのコールハースらしさってそんなところにはなく、何か外界のものとぶつかりあって絶えず事件を(建築物を)引き起こしてる現場にだけしかコールハースは現れず、そして、そういうあり方というのは、どうしてこういう言葉が出てくるのわからないけどすごく「健全」だと思え、おまけのように主人公のインタヴューがくっついたこの本の構成って、なるほど正しいな、と感じられたのであった。
でしゃばりすぎ
★★☆☆☆
著者の自己PRの強さに若干辟易します。
コンサート会場、スポーツの会場、レストラン・・・
隣のテーブルにいて欲しくないタイプです。
行動と分析
★★★★☆
人間の能力は「創造する能力」と「処理する能力」に分類されると聞いたことがある。それに従うと、「創造する」ことを得意とする人間と「処理する」ことを得意とする人間に分けられるらしい。両者とも同等に備えた人間もいるだろうが、自分の回りを見渡してみると、確かにどちらかのタイプに分類することができるように思う。
コールハースは、OMA=行動(=創造力)とは別にAMO=分析(=処理力)を設立することにより、両者のバランスを保とうとしているように思う。では、その先には一体何があるのだろうか?経営者としての手腕に欠けてはいるが、政治家になることも否定しないレムの広範な行動や分析を注目しつつ、今後のさらなる活躍に期待したい。
五感を刺激する生々しさ。
★★★★★
レムに関してどうなのかという視点での評価は他の方々のレヴューに譲る。僕はこの本を読み終えたとき、作られ方が新鮮で非常に興味深いと感じた。瀧口さんの眼が捉えたものが正確に伝わるドキュメントにも、レムに負けず劣らずの面々が語るインタビューの中にも、五感を刺激する心地よい生々しさがあり、レムという人物が立体的に立ち上がってくる。まるで映画のような感覚と言えばいいだろうか。それは要所要所に描かれている彼女の尊敬や驚嘆、ウンザリや感激など、彼女自身の人間臭さがあるからこそ。その意味でレムコールハースを主題にしているが、もう一人の主役は彼を追いかけ追い詰めていく瀧口さん自身であろう。異論はあるかもしれないが彼女の存在感がこの本を深いものにしていると僕は思う。
行動喚起
★★★★☆
建築に対するモチベーションが下がっている時に読んでも良。難しい本ではないので。世界の建築家の行動力に刺激を受け、自らの行動が喚起される事間違いなし!