しかしながら、吉本氏はご自分の親鸞の考えに対する理解に絶対の自信を持っておられるようだが、その理解にはいくつかの重大な欠陥がある。しかもそれを指摘できるだろう歎異抄や教行信証などの記述を意識的に排除し、自分の思想に都合のよい記述の部分だけを抜き出してまとめている。
例えば話は難しくなるが歎異抄第一条(真宗には信心が必要なこと)、後序の二種深信の機の信心(信心には自分が悪人であるという自覚が必要)などについて吉本氏は全く言及せず、都合の悪いこの文献についての記述を避けている。
そのかわり吉本氏が好むのが「自然法爾」つまり信心など必要なく、全てを無知の世界へゆだねることである。にもかかわらず、この本の吉本氏の記述はその自然法爾から離れている。特にこの本の吉本氏の親鸞の善悪判断の記述は誤りと述べねばなるまい。(吉本氏は社会が悪と思っても如来からみれば善の行為があり得、それが思想の最大の眼目と述べている。そうではなく如来からみれば人間の行為全てが悪なのであるという視点を持つべきである)
吉本氏の視点には自己を顧みるなどの視点が欠けている。あるのは自分のわずかな知恵に頼った「自然」とは名ばかりの根拠のない自己肯定だけである。