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言葉と物―人文科学の考古学

価格: ¥4,725
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新潮社
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ヘーゲルに抗して ★★★★★
 これを読むのに僕は半年かかりました。まず冗長で繰り返しが多い。同じことを何度も言う。だけどこれはフランスの論理にうるさい連中に対する応答なのだろうと考えながら読み進めました。(サルトルだって冗長だ。)
 読後感としては「ああ、同じ現代人だなあ」ということです。当時も今も内容はさっぱりわからなかったけど同じ現代人だなあという感じがしました。このことをちょっと説明してみます。
 フーコーのこの本は基本的にある時代のパラダイムに則ってある思考なり言説は説明できるというスタンスです。つまり、時代がこうだからこう、こういう時代だからこう考えた、というわけです。これは僕達になじみの考え方じゃないでしょうか。つまり、あの人はああいう世代だからね、と僕等は結構簡単に決めつけたりします。そういうところはとてもよく似ているなあ、と当時は思いました。
 今考えると、おそらく彼はヘーゲル哲学に抗したかったのだろうな、と思います。うまくいえないのですが(よくわかっていないのですが)ヘーゲル哲学の絶対性ともいうべきもののどんづまりが彼の頭の上まで来ていて、それをぶちやぶりたかったのかな、と。
 
 あと特筆すべきことは、時代と時代との連関は全く明らかにされていないということです。ある時代だからこう、ある時代だからこう、ということは言えても、何故ルネサンスから古典主義に移ったのかはさっぱりわからないのです。つまり時代間の因果関係はわからない、お手上げだ、ということです。この辺りは先にあげたヘーゲルがあまりにも時代から時代への移り変わりをピシッと説明しすぎていてフーコーにはやりきれなかったんじゃないか、と思います。
 全体としてはやはりある種の決定論であり、その点はヘーゲル哲学と同じかなと思います。
近代は燃え尽きたか ★★★★★
 ルネサンスにおける知の枠組みは、「類似」であった、古典主義時代においては、表象であった、そして近代において初めて「人間」という概念が登場する、そうフーコーは言う。
 この書を読んで、最も痛快なのは、分析と記述の巧みさであろう。古典主義時代においては、言語学、博物学、経済学という異なった分野を「表象」というエピステーメーが貫いている。そしてそれぞれの分野が表象することの限界に達し、有限性や生命や労働という概念が現れ、近代が始まる。こう言ってしまえば、それまでであって、フーコーの入門書などに書かれている通りなのだが、実際に、この書を読み解いてみれば、一つ一つの概念や学問分野や思想家を検討し、特徴付けていく論述に巻き込まれていく心地良さが訪れる。
 本書において、最大のインパクトを与えたのは、人間という概念の終焉ということらしいが、「人間」という概念は、近代に固有のものであって、それ以前にはなかったのだと言う。
「ルネサンス時代の人間主義も、古典主義時代の人々の合理主義も、世界の秩序の中で人類に特権的場所を与えることは出来たが、人間を思考することはできなかったのである」(P338)
 そして、近代という知の配置が終われば、「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう」P409
古典主義時代と、始まりつつある現代の間に挟まれる形になる近代は、近代に限定された思考形態を浮き上がらせる。そして近代特有の思考は、普遍的なものではなくなり、局所的なものに過ぎなくなる。
 私の感想としては、思想史と学問の発生と経緯を外側から捉えているように感じる。なので、ルネサンスから古典主義時代への移行、古典主義時代から近代への移行の原因などについての説明はない。歴史的にあったものとして、それをフーコーの観点から区切って行く。そして、カントやハイデガーのように、大きな問いを立て、一つ一つの言葉を定義づけながら、体系を築いていく「哲学」ではなく、思想と呼んだ方が適切だろう。
 個人的には、古典主義時代のエピステーメーと、古典主義時代から近代への移り変わりについては、なるほどと驚嘆しながら読んだが、近代の特徴が、古典主義時代との断絶と比較、そして新しく現れつつある現代の知(文化人類学)との比較からのみ説明されている点が、曖昧さを残していると感じた。けれども、既成の人間という概念に代わる、新しい知の到来を、ニーチェや現代作家を上げながら、期待している点には、好感が持てた。
「自分が神を殺したのだと告示するのは、そうやって自らの言語、みずからの思考、みずからの笑いをすでに死んだ神の空間におきつつ、また、神を殺し、みずからの実存がこの虐殺の自由と決定をつつんでいる、そのようなものとしてみずからを示す、最後の人間なのではあるまいか?」P407
 そして、「言葉と物」の後に書かれた書物へと読者を誘う。


最も依拠した現象学批判とドイツ哲学への系譜学的批判 ★★★★★
 本書で第1部の最後にフーコーの認識論を描いた図版がある。その複雑さのために丁寧に読解したのは山本哲士さんの著書くらいしか採録していないが、この図がフーコー認識論では最重要な構図であろう。それは現象学でフッサールが想定した心理学主義と現象学的還元の構図を超えるために描かれたノエマ・ノエシス構造を意識作用の時間系列と機能別に対応関係を整理したものであり、実に意義がある。
 その延長上で、ハイデガーの存在と時間を意識し、思想史的にはカントに始まり、現象学で近代問題を整理し、ニーチェの神の死とフコーが本書で開陳する人間の終焉を対置することで、本書が果たす役割が説明されている。なかなか大した戦略家である、と改めて感心した次第。再読のたびに新たなものが見える快著。
自律主体としての人間、への批判 ★★★☆☆
現代思想を代表する一人、フーコーの主著。

本書の主張を一言でまとめると、「自律した主体としての人間」というアイデアは、実は十九世紀になって作られたものに過ぎず、それも知のありようが変わればすぐさま消えてしまうものだ、となるだろう。
最後の一文「そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」(p409)はあまりに有名だ。

本書でやっているのは、その「人間」というものがどう作られてきたのかを延々と追いかける作業だ。
その分析のキーとして、言語、貨幣、植物の分類をとりあげて、それらの位置づけを追っている。

ただ、フーコー自身も認めるように、本書は長いしやたら難解だ。
目次の振り方次第では、それだけで読者の見通しがかなりつきやすくなると思うのだが。


さて、そのフーコーのテーゼだが、どうも発生論の誤謬に陥っている気がしてならない。
発生論の誤謬というのは、「なぜ人々は主張Xを行うのか」を解き明かすことで、主張Xが批判できたと思ってしまう誤謬のことである。
たとえば、「なぜ彼らは大きな政府を擁護するのか」を解き明かしたところで、では大きな政府がいいのか悪いのかは何もわからない、こういう話である。

フーコーの論は、人間というアイデアがどのようにして出来てきたかを丹念に追っているが、それによっては、「人間」それ自体への批判にはつながらない。
主張者自体を系譜学的に追いかけても、主張内容を解き明かすことはできないのだ。
だから、人間というものを誰も言わなくなるときは来るかもしれないが、それは人間がなくなったのとは意味が違う。

フーコーのエピステーメーについての論も同じで、人々が時代時代でどういう主張を行い得るか調べても、主張内容の可否はわからない。

そういう意味では、フーコーの論は非常に現代思想的であり、またその限界もよく表れている気がする。
「人間」ついて ★★★★★
 ひとつのことについてだけ語りたいと思います。それは誰もがこの本について語るときに、それをつねに中心に据えて語ってしまう「人間」についてです。
 フーコーは327ページで「解決されぬかくもおびただしい無知、かくもおびただしい問いをまえにして、あるいは筆をおくべきかもしれない」が、「なお語っておかなければならない二、三のことがある」として、「人間」と「人文諸科学」について語りはじめます。したがってそれ以降において展開される「人間」と「人文諸科学」というテーマは付けたしのような形で陳述されていきます。
 何よりもこの著作において語られている「人間」とは、あくまでもアカデミックな学問の空間において、19世紀以降におけるその場において思考するかぎり、それなしでは思考することができない存在ということです。たとえば、19世紀以降、「無意識」という概念が重要視されます。それは「人間」なしでは存在しえない場ですが、他方で「人間」はみずからの「無意識」を統御することはできません。この種の「無意識」-「意識」的形態の思考を可能にするものとして、「人間」という場がどうしても登場してきてしまう、そういう意味で「人間」ということが登場してきているだけにすぎないのです。「人間」にそれ以上の意味がないことは、多少の労をおしまなければ読み取ることができるはずです。「知の考古学」にとって重要なことは、「人間」や「人文諸科学」を登場させてしまう諸条件を知ることにあるのです。それを知るために絶対に必要だと思われる輪郭的条件をフーコーは、327ページ以前のところまでに展開しているわけです。
 また、19世紀以降における「人間」の登場にたいして「神の死」のようなことが語られるとしても、「神」の存在自体は、デカルトの時点においてさえ「証明」すればことたりていた存在にすぎないのであって、それは17、18世紀においてあらゆるものを無節操に結びあわせる、「表象」理論の仮の中心点にすぎなかったのです。
 したがって本書において「人間」「神」というタームは、フーコーがもっとも重要視している「考古学的」な認識論的場(「エピステーメー」)にとっては二次的なもの、いいかえれば手段にすぎなかったのであり、重要な点は「人間」にも「神」にもないのです。