どうせ死ぬなら…
★★★☆☆
いつ死んだって自分の勝手じゃないか。
この体をどうこうしようと、自分の勝手じゃないか。
と思ってましたし、今もどこかでそう思ってるかもしれません。
「死」について考えると、本当に底なし沼に答えが出ない。
納得のいく答えが見つからない。
たまには作家さんの思考に便乗して考えてみるのも良いかもしれません。
そんな事、誰にも分からない。
★★★★☆
だからこそ、悩むのだが・・・。
「そんな事考えていないで、もっと他の有意義な事に目を向けなよ」
きっとそう言われるのがオチだろうけど、でも、(何で生きなければいけないのか?)という問いは、僕には非常にマトモな疑問に思える。
何でなんだろう・・・?
何で?何で?・・・分からない。
この不毛な問いをひたすら繰り返すのだ。
確かに、辛い。
そういう時、もし、身近に相談できる寛容な人間がいればいいのだが・・・・、こういう問いは、きっとされた方が迷惑だろう・・。
人は基本的に「暗い」話を好まない。
ましてや、こんな話。家族にだってできやしない。
「何で、僕は生まれてきたの?」・・・なんて。
そんな貴方に、唯一の救いは・・・。
自分と同類の人間の本を読む事です。
勿論、本でなくても、音楽でも、映画でも、自分の問いに答えてくれるものなら、何でも良いと思う。
僕の場合は、この人の本だった、というだけです。
特効薬もないことはないですけど…
★★★★☆
自殺をする主に「若者」へ向けて中島先生が語った直球といえる一冊。
先生が子供のころから「いつかぼくは死ぬ」ことだけに苦しみつづけて哲学へ行ったこと、同じ悩みを持つものは「哲学」以外に救いはないことが語られる。
「自分の意思でなく生まれさせられてあっという間に死ななければならない」ことについて、全く同じことを先日TVで南直哉という禅僧が言っていた。
このお坊さんの場合は、同じ悩みで仏教に行って、そこに何かを見出したらしい。禅僧で妻帯しているのもどうかと思うので?マークはつくけれど。
中島先生は哲学者なので「哲学以外にはない」と自らの経験から断言されるわけで、先生からすると南さんのような禅僧は「邪道に流れおって。軟弱者が。」という扱いになるのでしょうか。
私は宗教でも芸術でもそれをやっていればその人が死なないですむようになるのであればそれでいいのだと思いたい。他の何でもダメな人は先生の言うように哲学に行ってみて、先生の言うように一見ネガティブにでもいいからとにかく生きていく、ということが重要だと思う。
ほんとうは「自分はやがて死んでしまう」ということより重要なことはほかにはなにもなくて、仕事とか家庭とかはそのことを考えないようにするためのひまつぶしである。そのことを考えるためだけにとにかく生きてみなさい、と先生は言う。
先生、もうひとつ死なないようにする(自殺しないですむ)特効薬がありますけどもちろんそれは邪道でしょうね。私なんかは全身麻酔で手術を受けただけで即「死にたくない病」になりましたけれど。
「如何に死を迎えるか」が人生最大の問題
★★★★☆
本書の価値は、冒頭の8ページにあると思う。U君、T君、Sさんに対する呼びかけは、生々しくて迫力がある。人生は余りにも辛く、苦しい。しかもそれが死ぬまで続く。では、なぜいま自殺してはならないのか。その理由は無い。しかし、筆者は「きみがいま死んでしまうと、ぼくは悲しい」から自殺するなと言う。これは論理的でなく、感情的である。人生は不条理であることの証明のひとつだろうか。
そして、筆者はもう62歳らしいのだが、自殺もせずにこうして生きている。本書を読んで、生命力の強い人だなあと思った。「あんな屑みたいな本を同じテーマで次々に書いて、ぼろ儲けじゃないか」とか、自殺した人の奥さんからは、「もう、毒をまき散らすような本は書かないでください!」と言われているのに、執筆し続けている。この度胸には感心せざるを得ない。
しかし、《死》を最大のテーマとすることは、古来からの思想家にとって当然である。岩波文庫の『ブッダのことば』でも、「君たちは必ず、もうすぐ死ぬんだよ。だからその前に修行して欲を捨て解脱しよう」と繰り返し語られている。だが、中島義道はブッダの説くような《彼岸》や《悟り》や《涅槃》を信じていないようである。ここがやはり学者なのだなあ、と思った。まだ世俗の枠というものの内側にいるのだ、と失礼ながら感じてしまった。