独占資本への憎悪と民衆の無力。決起へと至る状況はあまりにも現代と似ている。
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場面や状況、心情の描写や分析が、全編にわたり丹念に書かれており、どの一文からも今に通じる示唆を得られるような、知見に満ちた頭の下がる一冊です。
昭和二年の金融パニック後に誕生した独占金融資本。一方で中間層の没落と地域社会の衰退が生み出す貧困。
農村の疲弊とともに資本への憎悪が高まる中、闘争的な講演が聴衆を引きつけて革命的なというか、革命を容認する社会的状況の根底をなしてゆきましたが、テロリズムを可能にする社会状況は、更に農村有力者、軍部から積み重ねられるなかで決定的に醸成されてゆきます。
昭和四年のロンドン軍縮会議を契機とした軍部の政治介入。軍部内での団体結成と民間革命分子との合流。昭和六年、八年のクーデター未遂事件、昭和五年浜口首相狙撃事件、昭和七年の血盟団事件と五・一五事件、そして昭和十一年の二・二六事件へと革命とテロリズムの機運は、どんどん正統性を得て高まっていったのです。そのあたりの歴史的なダイナミズムが臨場感あふれる筆致で理解できるでしょう。
その頃、窮乏する民衆は食い扶持のために入隊し、手当ても充実した大陸へ送り込まれるていきます(このあたりはイラク戦争と米軍の関係に似ています。日本軍は恩給がありますが、米兵は単に捨てられているという違いはありますが。)。社会的状況を活用しながら軍部が着々と体制を固めつつ、テロリズムへと先鋭化したエネルギーは、社会改革を完成させることなく、ついには戦争への重要な布石として掠め取られてしまいました。
農村の疲弊と財閥への憎悪。政党政治や統治システムへの絶望と決起。そういった「革命的=直線的状況認識」。それは本書の与える大変重要な示唆でしょう。
革命的状況認識、あるいは実行型の人間を選抜して指令を出すといった結社と行動の原理は「オウム事件」に対する示唆も与えてくれます。
民衆に気づかせたい、救いたいという思い(ただしその認識は資本の集積と貧困により生み出されたのではなく、宗教的原理、個人的精神史、軽薄な社会状況への反発といったものよってもたらされたものと思いますが)。だが、民衆は自分たちを笑っているというオウム的認識が加わることによって「決行」は行われたのです。テロの対象は財閥や政党ではなく民衆自身でした。
いづれにせよ「直線的認識」を生み出す社会状況という意味では、今もあまり変わってないんじゃないかと思います。人々は貧困に苛まれ、憎悪は高まっています。
著者があとがきに言う、「暴力の底位をなす憎悪にとらわれ」た者たちは一度頭を冷やすためにも読んだほうが良いでしょう。結局革命なんてできないんだな、テロなんて誰かに利用されてしまうんだなというのが率直な感想です。