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天皇とアメリカ (集英社新書 532C)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 集英社
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ネガフィルム? ★★★★★
面白かった。
難しく微妙なテーマを逃げることなく論じ合った一冊。
天皇とアメリカ。この二つの言葉を軸に日本および東アジアの近現代史を捉え返している。
方法として、常識である天皇の宗教的な面、アメリカの近代的な面をあえて逆転し、天皇の近代的な面、アメリカの宗教的な面に着目。
これまでとは違った斬新な歴史イメージを提供してくれる。
その結果として見えてくるのは天皇とアメリカの親和性であり相補性。
それは、互いに後発の帝国として共通項を持つということであり、
歴史的事実として日本帝国主義の遺産がアメリカという帝国に容易に引き継がれていった理由を説明してくれる。
またかつての親米右翼の成立の根拠も見えてくる。
そして、その帝国の吸収合併のおかけで、戦後日本は過去の負債から逃げおおせてきたということも。
アメリカの一国覇権主義がゆらぎ中国が台頭する中にあって、従来の枠組…それは「天皇とアメリカ」という言葉に象徴されるわけだが…を越えた未来への想像力をとても刺激してくれる対論です。
かたい話ばかりではなく、ブランドとしての皇室であるとかやわらかい話題やエピソードも散りばめられ一気に読めました。

現代の密教 ★★★★★
例えば鶴見俊輔の「天皇百話」などで戦後の象徴天皇制の歩みをたどると、薄ぼんやりと見えてくるものがある。それをアメリカの影ということもできるし、アジアとの関係で言えば戦前の大東亜帝国の残影ということもできるだろう。丸山政男の「顕教・密教」の例えにならえば戦後の天皇制の顕教は「平和を祈る天皇」であり、密教こそまさに「アメリカの影としての天皇」であった。
本書は天皇とアメリカの表裏一体・不即不離ともいえる関係をこれ以上ないというほど明晰に語りきって余すところがない。論文ではおそらく筆が鈍る部分もあったかもしれない。対談という形式が生きたと思う。
印象に残ったフレーズを少し紹介する。
「アメリカは、アメリカによって支配された国のナショナリズムを認めるだけでなくて、意図的にその推進、育成をした唯一の帝国である。(テッサ)」
「新米的な権威主義政権が、今度は植民地主義の忘却を支えていく複雑な構図が見えます。(中略)日本はそれらの国々と、みずからが侵略した過去には正面から向き合わないまま、戦後の関係を結ぶことができた。(吉見)」
「日本からオバマのようなリーダーが登場するとしたなら、それはきっと沖縄からではないでしょうか。
(テッサ)」
天皇制は近代為政の技術、アメリカは宗教的産物 ★★★★★
玉石混交というよりは、最近石ばっかりの新書ジャンルでも、本書は十二分に読む価値のある1冊。
齋藤孝“お調子者”センセイではないが、3色ボールペンでもあれば線を引きまくりの1冊であろう。
評者の3色ボールペンは赤のインクが切れているので、黒と青でアンダーラインに勤しんだ。
黒と青の違い? 齋藤センセイの本は読んでいないので適当に引いただけ。

テッサ・モーリス=スズキには、随分前に出たものだが『日本の経済思想』(岩波書店)という大変面白い本があった。それ以来だ。吉見俊哉は初めて。この人はカルスタ系みたいですな。

天皇制を「万世一系」の云々とやらで、伝統的な存在として有難がる勢力や素朴にそう信じている御仁もあろうが、テッサ曰く「天皇制は伝統であると主張されるのだけど、実は天皇制の枠組みで、(明治)国家にとって不都合な伝統はつぶされていった」のであり、“小さな神々=真の伝統”を統廃合する明治39年(1906年)の神社合祀令に対しては、かの南方熊楠が強く反対していたのだという。この法律は一町村一社を強制するものであり、村や町の祠がドンドン壊されていったのである。「神社と行政単位を一致させることで、社会統合の装置としてより効果的に機能できるように」(吉見)、天皇制は利用されたのである。

こういう、キッチリ歴史を踏まえたものを読んでいると、同じ対談でも最近読んだ『左翼・右翼がわかる!』(鈴木邦男、佐高信)といったものの脇の甘さが知れる。

本書は読みどころ満載!!! 
今は亡き祖母が、天皇(制)を決して有難がらなかった意味の一片も少しわかってきたような気もしてきた。
天皇とアメリカ ★★★★★
切れ味鋭い対談ものを時折出版する集英社新書がまたまたやってくれた。カルチュラル・スタディーズの吉見俊哉と歴史家テッサ・モーリス・スズキによる対談のテーマは「天皇とアメリカ」。日本を「天皇とアメリカ」という二つの力学の交錯する場として捉え、その近現代史を解きほぐしつつ、行き詰る日本の現在を打開する方向性を模索する。日本の歴史においてそもそも天皇とは何だったのか。なぜナショナリズムとアメリカは背反することなく親和的に結びついてきたのか。「天皇とアメリカ」という装置によって失われたものは何だったのか。維新後の近代日本から日米戦争後の現代日本、そして現在に至るまで、2人の議論は各分野のアカデミズムの最先端へ誘うものであると同時に、日本について、日米関係について、そしてこれからの日本と東アジアの生き方について考える格好の指針となっている。刺激的な一冊。
歴史的想像力の対話 ★★★★★
「天皇は近代」、「 アメリカは宗教」と言うそれぞれの表象は、既にそれなりに認識されていることであろう。しかし、この二つを複合した「天皇は近代であり アメリカは宗教である」という表象は様々な理解をうみだす。
太平洋戦争後、アメリカは「天皇制」存続を認め占領政策に利用したことから、この2つの表象にに関連があることは明らかであるが、それぞれの表象を複合させたとき、幕末に日本とアメリカが出会った後、アメリカの宗教と外交軍事政策、日本の近代化と外交軍事政策が絡み合って相互補完しあっていることが分かる。
戦後の「アメリカ、日本のアジア政策」に与えた影響、日本のアジア諸国に対する戦争責任への「一貫しない、欺瞞的な対応」」、「経済大国日本の自己イメージの形成」などなど、さらにジェンダー、女性天皇、右翼の存在など、様々な領域で事実の発見と連関、相互作用の存在を見出し、さらに様々な想像が展開されるのである。
全編、両著者の3年間ほどの期間をかけた対話からなっており、読みやすく、しかし刺激を得るところの大きい著書である。
アメリカの衰退(と中国の台頭)は、「天皇とアメリカ」から発している体系に衝撃を与えるのは間違いない。天皇の特異性の主張をやめるのか、女性天皇を認めるのか、欧州の王室のスタイルに変化すべきか、あるいはいっそ共和制への移行を視野に入れるのか。こうした変革のもと日本人の新たな表象をどこ求めるのか。さらに経済的な統合が進むであろう東アジア地域において、何が統合の表象となるのか。さらに想像力は広がっていく。