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吉本隆明1968 (平凡社新書 459)

価格: ¥1,008
カテゴリ: 新書
ブランド: 平凡社
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思想的邂逅 ★★★★☆
 この書は、同じ下層中産階級出身の出自をもつ著者が、吉本隆明氏の思想のどこにその偉大さがあるのかを解明した力作である。鹿島氏は、いわゆる団塊の世代に属し、1968年に神奈川県立湘南高校を卒業し東京大学に入学している。全共闘運動の時代である。時代の波に呑まれるようにして、〈反体制〉活動に関わることもあったが、違和感が抜けなかったようだ。そのとき出会った吉本隆明氏の著作『擬制の終焉』および『芸術抵抗と挫折』『自立の思想的拠点』などによって、高村光太郎に代表される前世代の人生とみずからを重ねて思想的に苦闘した吉本隆明(の世代)と、今度は鹿島茂氏がその時代的社会的位置を重ねて、違和感のよってきたる所以と、その思想の近代=戦後日本における意義を考察している。読書遍歴をほぼ同じくしているので、表現と比喩の巧みさもあり大いなる共感をもって読むことができた。あまりよい読後感はもてなかった鹿島氏の、かつての東京都の「学校群制度導入」に対する悪罵などを思いだして、氏の世の「平等志向」嫌いが吉本思想に支えられつつ醸成されていたことを知ることもできた。
 吉本隆明という思想家が団塊世代のある部分の人びとに支持されたのは、その「倫理的信頼感」にあったと、著者は「あとがき」で述べているが、これは、著者より若い世代の社会学者宮台真司氏もかつて指摘しているところである。ソクラテス風には「汝自身を知れ」ということになろうが、吉本隆明の場合は、欧米に遅れて近代化を推進しなければならなかった近代およびその延長としての戦後日本社会の社会構造との対応の問題として、「汝自身を知れ」としているのであって、とくにその社会階層的出自が己に強いるいわば身体的現実を無視・捨象して、「ウルトラナショナリズム」やら「スターリニズム」やらのイデオロギーに跳躍してしまう欺瞞を痛打しているのである。「留学体験」も「転向」も「自立」も、この核心的な思考と認識にもとづいて考察され、それらの問題をめぐって吉本前世代の人物たちが俎上に乗せられている、ということだ。
 就中「世界共通性(芸術・文化の了解可能性)」と「孤絶性(後進国日本における了解不可能性)」との葛藤に苦悩した高村光太郎についての考察を追った第4〜6章が、この書の白眉で、昔神楽坂の会場で聴いた、吉本さんの高村光太郎についての講演を思いだしつつ読み進めた。
『畢竟するに、このときに感じた違和感が吉本隆明の文学的営為のすべての出発点になります。高村光太郎は、他の戦争協力文学者とは異なり、平和になったとたんに、コロリと転向して、民主主義万歳を叫ぶようなことはありませんでしたが、それでも、吉本は「負けた以上、今度は精神の武器で自分を強くして真善美の文化を作り上げよう」などと前向きなことを言える精神がこの詩人にあるという事実に愕然としたのです。』
 高村光太郎は、この葛藤を自然法的なピューリファイ(purify)のレフェランス(reference)として、智恵子を、そしてその発狂後は戦争を選ぶことによって〈克服〉していったというわけである。戦中戦後その道をとれなかった吉本青年は、位置的には近かった「四季」派に対しても、その「西欧的認識・西欧的文学方法」が「日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実観を、批判的にえぐり出すことを怠って」いる限り「あぶくにすぎない」として自戒を込めて批判したのである。鹿島氏は、ここを基点に吉本「大衆の原像論」が成立した過程を論証しているのである。
「吉本はすごい」ではなく「我々(団塊の世代)はなぜ吉本はすごいと思ったか」 ★★★☆☆
吉本隆明を評価する著名人には事欠かない。コピーライターの糸井重里、
社会学者の上野千鶴子はその著書で彼の影響下にあることを隠さない。
内田樹もそうだ。彼らはみな所謂団塊の世代で、吉本の「ホットスポット」は
その世代に集中する。だが彼らの語る「吉本のすごさ」が、今ひとつ伝わら
ないのが85年生まれの評者であり、多くの若者はそうだろう。吉本への異
常なまでの熱狂には、極めて明白な「温度差」というジェネレーションギャッ
プが横たわるのだ。そこには「共同幻想」などの彼の理論的枠組みをはみ
出す何かが、欠けているように感じる。

その点、本書で著者がたてた問いの批評性の高さは評価できる。「はじめ
に」で明かされる本書の目的とは、「吉本はすごい」を解き明かすことでは
なく、それを知らない読者に宛てて書かれた「我々(団塊の世代)はなぜ吉
本はすごいと思ったか」という次数を一つ繰り上げた問いなのだ。吉本自身
が言論界に登場した50年代60年代の状況、すなわち「吉本をすごい」と思
う土壌をも解説しながらそれを追憶する。文体は柔らかくいわかりやすい。
「吉本の影響圏外」の読者に向けられていることが、ひしひしと伝わる。

だが、本書唯一にして最大の欠点はその分量(新書にして400ページ!)に
ある。特に、「共通性」と「孤絶性」の狭間で分裂する高村光太郎の「転向」
が主題となる第四章からは「かみ砕きすぎ」で、いつから高村光太郎の評
伝を読んでたんだという気になる。さらに次の「四季派の問題は高村の箇所
のアレンジにすぎず、もちろん吉本自身の問題意識がそれら評論にあるこ
とはわかるが、それでも間延び感はハンパない。

結論は、「あとがき」で明かされる。詳しくは実際に読んでみてほしいが、こ
の400ページを費やしたわりにズッコこけるほど単純なものだ。だが、同時
代的に共有しないと実感できない熱狂というものの着火燃料は、得てして
そういった単純なものなのかもしれない。
世代によって感じ方が違うことが分かる楽しい本 ★★★☆☆
1968年の世代がどのように吉本隆明を尊敬して、意味を見出したかが良く分かる本。でも、後の世代の吉本隆明好きとは論点が異なりやっぱり違和感を覚えた。反共、転向などの問題を、当時の左翼陣営の問題意識でとらえて、その中で、吉本隆明の意味を説くので、その点は正しいと思うが、一つ物足りないのは、吉本隆明が、異常な罵言雑言で批判する相手というのは、思想が間違っている、とか、思想上の欺瞞がある、というより、当の人物が、たとえばその思想で飯を食っているとか、相応の権力や影響力を持って、無配慮である場合に、限っていたと思う。読者からすると、そこはなかなかおもしろいのだが、本書では、なんだかそういう血の通ったところは昇華されて、スタンス(思想というほどのレヴェルではない)の違いで舌鋒火を噴いていたかのような説明の仕方が、違和感があるところだ。だからこの本を後続の世代が読むと、なにやら吉本は「小うるさい奴」という感じさえ持ちかねない。人それぞれ色んな環境で生きているわけで、ときに、吉本の意に反するようなことを思っても、それはそれ、ということもあるわけで、そんなことにいちいち吉本隆明も噛み付いていたとは思えない。後の世代からすると、吉本は、荒削りでも、古今東西の書物や科学を勉強して、自分の言葉で語って、それがまた、ありがちな人文系の「良い恰好しい」とは無縁の健全な常識でずばっと表現することが魅力だったと思う。或る意味「理系頭脳」の良さだと思う。でも本書でも挙げられている芥川論など、やっぱり無闇な自意識の力比べとごりごりの理屈で押しまくる点など、今となってはあまり共感できないところもある。本書終盤出てくる「大衆の原像」論も正確だと思うが、「大衆」は「良い恰好しい」の文系インテリへの批判としては効くが、時として、「大衆」の実体化したような吉本の表現は、相手を孤立状態へ追い込む大衆という「権威」を楯にする術で好感は持てなかった。それはともかく本書は、世代によって感じ方が違うことが分かる楽しい本。
おもしろいことには間違いないのですが ★★★★☆
『高村光太郎論』『転向論』に執着して(こだわって)展開された吉本論。
ベタほめでもなく、毛嫌い的な批判でもなく、その意味では適度な距離感で綴られていると思う。
後進・先進、文化(普遍性)・前文化(職人的な孤立性)等の対立軸で高村光太郎を分析し、
世界を獲得しなかった(できなかった)獄中非転向組の抽象性を正確に撃っている。(もちろん
吉本さんが)
とても興味深かった吉本論のひとつなのは間違いないけれど、
「1968」(何年前からかブームになっているのには違和感がありますが)が鹿島さんにとって
なんなのか、いまひとつわからないのが残念、というか、こちらの理解力不足?
鹿島茂は喰えないヤツだと思う ★★★☆☆
 奥付まで含めて全424頁の本書の、本論末尾に当たるp404を読んで引っくり返ってしまった。曰く、「というわけで、私たちはようやくここで、初期吉本の読み直しという、自分たちに課した第一の課題の最後に到達したわけですが、では、1960年の安保闘争によって左翼・共産党神話が崩れ去り、吉本のいう古典的インターナショナリズムの空疎化が歴然となった後の時代、つまり1960年代後半に登場した私たち団塊の世代(68年世代)にとって、吉本隆明という思想家がどのような意味をもってあらわれたのかという第二の課題(つまり、この本のタイトルである『吉本隆明1968』の表す疑問)はあとがきに譲ります」……って、そんな大事な論点を「あとがき」に丸投げしていいのか?
 で、その「あとがき」が「最近、私が『凝って』いるものの一つに、人口統計学とか人口動態学などと訳されているデモグラフィーというものがあります」(p405)と始まり、「私の吉本隆明論は、そうとは意識しなかったにもかかわらず、このエマニュエル・トッドの主張する人口動態学とかなり密接な関係を持っているような気がします」と受け、さらに人口統計学者グナル・ハインゾーンの「ユース・バルジ」概念を用いた一種の団塊世代論として展開する。
 いや、人口動態学や人口統計学は重要な学問だと思いますよ。しかしこれでは、吉本隆明は打ち捨てられるハシゴということになるんじゃないでしょうか? だって吉本がナショナリズムや言語の問題を通じて追い詰め、概念化した「大衆の原像」というものが、あっさり人口動態学・統計学に受け渡される構図になってるワケですから。
 ま、私も吉本が80年代以降、マーケティング理論や経済学やゲーム理論やポストモダンやバブルや、何やかやに追い越されていったという印象を抱いているので、著者の論じ方にそれほど違和感はないのだが、しかし「吉本隆明はエライ!」と連呼するこの本で、涼しい顔で吉本葬送をやってのける鹿島茂って、つくづく喰えないヤツだと思う。