戦争の悲劇
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第二次世界大戦によって、5000万人以上の人々の命が失われた。その後、大戦は生じていないが、各地での地域紛争は終わることを知らない。それでは、戦争を防ぐにはどうしたらいいのだろうか?
初等教育などにおいて、戦争教育をしっかり実践していくことが大切になってくる。戦争の原因や、年代を教えることも大切ではあるが、人々がどのように死んでいったのかをしっかり伝えていくことも大切なのである。たとえば、原爆投下で多くの人が焼け死に、水を求めてさまよったという記述は良く目にするが、「慌てて避難所へ駆け込んできた女性が負ぶっていた多くの赤ん坊の頭は爆風で吹き飛んでなくなっていた」「急に走り出すなんてものじゃない。ジグザグに走ったかと思うと立ち止まって叫んだり。気が狂った人がたくさん出た」などという戦争体験者の語りをありのまま伝え、人々に訴えかけていくことも必要なのではないだろうか。アメリカ人の子供は、母国が大阪に空襲をしたときの空からの写真を見たことはあるが、地上でどのようなことが起きていたのかは知らないのである。
以上のようなことが、筆者の伝えたかったことではないだろうか。
「死のリアリズム」からの視点
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私が最も印象に残ったのは本書において扱う、戦争における死が、ただ単に犠牲者として「死ぬ」ではなく、
「どのように死んだか」といった「死のリアリズム」を意識して書かれていることである。
「死のリアリズム」とは、どういった場所で、体のどこの部分がどうなって、何を聞き、何を見て、何を思って死ぬのか等
具体的に死の態様を思い浮かべることであろう。
「醜い死」よりも「きれいな死」を好む文学・映像作品、死んだという結果のみを数字で捉えることに慣れてしまう情報処理。
このような世相の中で、「死のリアリズム」を意識することを、現代の人々はどれだけできているであろうか。
特に戦争において起こる死、銃弾が貫くもの、爆弾等が着弾したまさにその場所で起きる死についてはどうであろうか。
そういった意味でも、ジャーナリストである筆者からの現場を重んじる視点から書かれる本書は貴重である。
「戦争における死」を我が身に置き換え真剣に思い巡らすならば、辿り着くのは絶句、もしくは魂の悲鳴である。
四肢は飛び散り、鮮血が噴き出し、内臓が飛び出し、恐らく死を意識する暇もなく命が瞬時に吹き飛ぶ。
しかも筆者が指摘しているように「激しく憎み、激しく憎まれ、憎悪のるつぼで息絶える」のである。
肉体的にも精神的にも、本来の自分であることを許されない死。誰かに憎まれながらの死。
こんな残酷な死が他にあるであろうか、この様な死が許されることがあってよいのであろうか。
行間からそのような思いが伝わってくる。
また、過去と比べて、科学技術が発展し戦い方が変わってきた現在の戦争においても「戦争の死」は本質的に変わらなく、
その戦争を支える仕組みも同じように変わっていない、とも筆者は主張しいる。
そして、現在の日本において着々と進んでいる、戦争準備の兆候に警鐘を鳴らしている。
「死のリアリズム」を通した「戦争のリアリズム」への追求が全章を通して貫ぬかれており、筆者の問題意識の高さが表れている。
金を出そうが「後方支援」なるものに派兵を留めようが、「立派な」参戦国である。
参戦国の人間は、戦争当事者であることを自覚し、「戦争の死」に真剣に向き合わなければならないであろう。
その際に、本書を是非手にとって読んで頂きたい。
昨今の戦争にどのような立場をとるにせよ、決して欠くことのできない視点を提供してくれる良書である。
理屈ぬきで戦争の残酷性を感じ取れる一冊
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戦争では多くの人命が失われる。が、どのようにして? 爆弾や銃で殺される、などと書かれていてもリアルなイメージは浮かんでこないだろう。本書は生々しいまでの表現を用いて、戦争で人が死ぬということをリアルに読者に訴えかけてくる。
原爆投下で多くの人が焼け死に、水を求めてさまよったという記述は良く目にするが、「慌てて避難所へ駆け込んできた女性が負ぶっていた多くの赤ん坊の頭は爆風で吹き飛んでなくなっていた」「急に走り出すなんてものじゃない。ジグザグに走ったかと思うと立ち止まって叫んだり。気が狂った人がたくさん出た」などという戦争体験者の語りをありのまま伝えるその内容は他書には見られない生々しさを持って読者に戦争の悲惨さを問いかける。
また、被爆国という戦争の傷跡を持つ日本ではあるが、その日本が戦時中「マッチ箱の大きさでアメリカを吹き飛ばせる爆弾」として原子爆弾の製造を必死に追及し、国民もその完成に向け喜んで鉱物採掘に従事していたなどの記述も過去の新聞資料などとあわせて紹介されている。
戦争は人が死ぬ。人は戦争でキレイに死ぬなんてことはできない。やっちゃいけないものはいけない。そう理屈抜きで訴えかける本書は是非多くの人に読んでもらいたい。
強靭なる反戦の所以
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日本社会の右傾化や脱「戦争アレルギー」などが言われるようになって久しい。
しかし一方で、そのような時流にはあくまで反対し、徹底的に抵抗する覚悟の定まった反戦の流れもまた、日本社会の中には確実に存在している。この確固たる反戦の拠って立つ基盤は何なのだろうか。
それが実は、本書のタイトルともなっている「戦争で死ぬ」ということのリアリティである。日本の反戦が強靭な芯を持っているとすれば、それは空襲や原爆などによる受動としての戦争死だけでなく、勝ちに行った戦場で他者を殺し、敗走の途上で殺され斃れゆく戦争死、銃後の砲兵工廠やウラン鉱・毒ガス工場での労働が生産する戦争死などがリアルに経験され、しかもその戦争死を正当化するロジックが現在に至るまで破綻したままである、という点に求められる。
(ドイツが「ヨーロッパ」というファンタスティックな共同体によって戦後の軍事行動を正当化し得たいっぽう、日本が「アジア」で同じ行動を正当化できたか否か、考えてみよ。)
本書が報告しているのは、正当化という名のファンタジーに包まれることのない剥き出しの膨大な戦争死である。登場する人々に共通するのは、死者の死を他人事ならずして経験し、自らの内に引き受けているということであろう。リアルな戦争死を3人称化せずにいる人々の反戦は、時流とは無関係に屹立する。1人称複数で語られるこうした非業の戦争死が、もしすべて他人事として語られるようになれば、おそらくその時、歴史は振り出しに戻るのであろう。
「死者を忘れない」もしくは「死者とともに生きる」とはどういうことか。それが、本書を読了した読み手に突きつけられる課題となる。
戦争賛美者は、戦争の血なまぐさい実態を知った上で勇ましい声をあげよ!
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現在に日本人の大半は戦場を見たことがなく、原爆や大空襲・アジア諸国の戦地等大量に人が死んだ現場を知る人は更に少ない。 その筆舌に尽くし難い惨状を目の当たりにした人で、今自衛隊という名の日本軍を外国に派遣せよと言う人を私は知らない。
本書終盤の9・11によりWTCで働いていて死んだ人の父は、アフガン空爆に対し「せがれは事件に巻き込まれたが、さらに、関係のない人たちが命を失うのには耐えられない。日本は米国の腰ぎんちゃくになる必要はない。テロの背景にある貧困の解消などほかの手だてを考えるべきだ。」と新聞にコメントし、墜落したUA93便に搭乗していた唯一の日本人大学生の親友は、「たぶん、僕らが憎むのは簡単なんですよ。『イスラム教嫌いや』と短絡してしまうことはすごく簡単。だからこそ、いまここで、憎むのをとにかく止めようと。そして、どうすればこういう悲しみをなくせるかを考えはじめようと」と筆者に語る。
N.Y.でも多くの遺族がアフガン・イラクへの攻撃に反対しているニュース映像を見た人もいよう。
短絡的に仇討ちの発想を人は持ちがちであるし、戦時になれば冷静に考えられず、大きな流れに押し流されてしまうからこそ、その一歩手前の今こそ、その流れを食い止めねばならないのだと思う。
戦時中、軍国少女であった芹沢氏はその理由を教育者が戦争を正当化し、報道が戦争に都合の悪い事実は伝えず、家庭の中にも戦争反対の雰囲気がなく、個人的には読書量が少なく物事を深く多面的に考える習慣がなかったこと等をあげる。
今という時代を、労働者が切り捨てられていく現状をルポした著作が何冊かある筆者らしく、現在の労働条件の悪化を戦前と結び付けるが、まさしく今は戦前であると多くの人が想像し、バーチャルでない血なまぐさい実際の戦争をイメージできなければ、またこのまま惨劇は繰り返されるであろう。