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不可能性の時代 (岩波新書)

価格: ¥819
カテゴリ: 新書
ブランド: 岩波書店
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時代の閉塞感の正体に迫る ★★★★★
 現実は基準となる反現実によって意味づけられる。「理想」「虚構」「不可能性」と反現実のモードを表す三つのキーワードによって、戦後の日本人の精神空間がラディカルに分析されて、鮮やかな見取図が提示される。勝者アメリカがモデルとなり、マイホーム、経済成長、土地神話を指標とする「理想の時代」は、70年代に入り、「虚構の時代」に取って代わられる。東京デイズニーランドが人気を集め、コピーライターが持てはやされた「虚構の時代」は、現実を記号の構成物と見なして虚構化することに特長がある。その行き着いた果てが、オウム真理教の「世界最終戦争」であり、神戸の少年Aによる連続殺傷事件であった。「虚構の時代」は終わりを告げ、「不可能性の時代」へと移っていく。
 不可能性とは何か。著者は、オタク、リスク社会論、ゲーム、インターネット、携帯電話、引きこもり、多重人格、奇妙な殺人事件等々、さまざまな事象、事件を分析して不可能性の正体に迫っていく。その論証は著者独特のもので複雑を極めるが、また胸が空くように鮮やかで目眩さえ覚えた。時代を分析の対象にしながら、同時に人間の意識の底まで降りていく思考の運動が貫かれて、われわれが捕らえられている閉塞感の正体を暴き出していく。「不可能性」の正体が、求められると同時に忌避される〈他者〉であることが明らかにされる。この時代は反対方向の両極端な志向によって引き裂かれる。虚構を徹底化する志向と、暴力的な「現実」の志向である。二つの志向は、思想的には多文化主義と原理主義に対応する。しかし、この二つの志向は通底して表裏一体の関係をなす。われわれはまさに「出口なし」の状況にある。
 だが、ここから驚くべき〈救済〉の道筋が提示される。〈他者〉が誕生する地点は、〈神=超越的な第三者の審級〉が発生する地点と同一である。これはまた〈憎悪と合致した愛〉が生まれる地点に一致する。〈憎悪と合致した愛〉の復権は普遍的な連帯を導く可能性を有して、多文化主義と原理主義のアポリアからの出口がある。さらに、〈神=超越的な第三者の審級〉の無能を引き受ける途は、被統治者が統治者と完全に一致する活動的な民主主義にあるとされる。しかし、正直ここにきて戸惑った。論理的な展開としては難解ではあるが了解できるとしても、リアルなイメージが伴わない。現状の閉塞感を分析する説得力に比べて、絵空事のように感じたのはどうしてだろう。そこが分量の上からも付け足しのようにのみ触れられたからだろうが、この主題についてはあらためての著作を期待しよう。
総論賛成、各論は・・・ ★★★★☆
 最初に時代区分と言葉の定義がある。理想の時代(1945−60)、夢の時代(60−75)、虚構の時代(75−90)、そして不可能性の時代(90年代以降)。現代(不可能性の時代)の特徴は「アイロニカルな没入」など幾つかの用語で整理できるが、基本的にそれらのコンセプトは現代人の二律背反傾向を示している。引篭もりのオタクが趣味の合う仲間内とのコミュニケ−ションを渇望することから、政治的多文化共生主義の徹底がコミュニタリアニズム(保守的伝統主義)と結果的に同じ振る舞いを行うことまで、膨大な事例を引きながらこれらの分析フレームの有効性を証明する。結論部で語られているような、社会的ネットワーキングの推進による民主主義の徹底に望みを持とうとする点も含め、著者の整理は成程うまく行っているような気がするのだが、それでも僕は以下の点が気になった。

1)オタク論がかなり雑で我田引水だ。例えば、鉄道や切手のマニアにとって、彼らの趣味は「広域の普遍的な世界へのつながりを実感させてくれる手がかりだったのだ」(94p)と語る。「オタクの世界=閉域」というステレオタイプなイメージとオタク達が持つ(と著者の考える)「世界」への希求の二律背反を例示しようとした箇所なのだが、でも、例えば鉄道オタクひとつ取っても、電車の「音」や「分岐器」専門の人とかゴマンといる。多分、彼らは別に路線図の先に広がる世界の広がりが萌えのポイントではない。アニメについても「マジンガーZ」等を挙げながら、「アニメの中の主役ロボットは、しばしば、神を連想させる名をもっている」(108p)という例証を、オタク世代における第三者の審級の強力な回帰の例として挙げる。でも、そういう名前じゃないアニメ・ロボットの方が多いんじゃねーの?(そもそもロボ・アニメばっかじゃない訳でさ。)実は全体的にこういう例示の「?」をつつき出すとキリが無いのだが、もしかして肝心の社会学の学説についても都合の良い話を適当に引用してるんじゃないか、という心配が浮かんでしまうのだ。

2)「大きな物語」の終焉。色んな人たちがポストモダン論で語ってきた認識だし、僕もそう思う。「社会主義vs民主主義」というテーマが、先進国での政治・経済・文化で全面的に語られてきたような時代では今はない。でも、今、僕らの生活は別種の少し小さな「物語」に規定されている。例えば、完全な「自由主義経済」の国なんて存在しないのは明白なのに、僕らは「自由主義経済」をお題目として信じている振りをしている。これって著者の言う「アイロニカルな没入」だ。こんな例は一杯ある。この本で結構な紙数を割かれてるアニメや村上春樹のストーリーよりも、もっと社会学者が語るべき「物語」は沢山あったはずだ。

3)何が上の時代区分で日本社会を変質させたのか、という分析がスッポ抜けている。著者本人が、戦後60年経っているのに「戦後」という時代区分が生きているのは日本だけだと冒頭で書いているが、政治システムは戦後変わらなかったという認識は著者もしているようだ。そう、変わったのは日本の経済システムなのだ。だとすると、未来に向けた巻末で「民主主義」という政治システムにだけ言及するのは片手落ちで、経済システムについても社会学の視点から何か語るべきではないか。

 僕は2)と3)のような問題点を打開するヒントを有効に語ってくれない「現状分析」は、幾らその手並みが鮮やかでもやっぱり星を5つつける気にはならない。(あと、アニメ/ゲームの分析って、そんなに大事かね?)整理の手並み自体は相変わらずお見事で、若年層による動機が不可解な犯罪の分析も納得がいくものだっただけに残念だ。
いわれてみればそうかもという議論 ★★★☆☆
理想の時代、虚構の時代というとそれらをあらわす表象にことかかないし、すぐイメージできるのに対し、「不可能性の時代」といわれてもなんのイメージがわかない。現在進行しているものを論述の対象としているからには回避できないことかもしれないが、タイトルでイメージがわかないのはよろしくないような気がする。

また著者の議論は、多様な表象を縦横に操った魅力にあふれるものだが、それらはあくまで著者が選択した表象であり、その背後に選ばれなかった表象が膨大にあることを忘れてはならないだろう。現実に対するひとつの見方として成立する議論ではあるが、それはたとえば、最初に織田信成君が信長の末裔にあたることを知ったとき、「いわれてみればそんな顔に見える」と思ったのと似て、あくまで「いわれてみればそうかも」という類の議論であるように思う。おもしろいにはおもしろいが、それが検証できるかどうかといったら、残念ながらできない類の議論なのだ。それともこれは社会学自体のそもそもの困難なのだろうか?
アイロニカルな没入。 ★★★★☆
今こうしてレビューを書きこんでいる行為自体が、本書でいう「アイロニカルな没入」の一種なのかもしれない。
本書の内容にコメントしつつ、書いているわたし自身の思考が著者の言説にとらわれているだろうからである。しかし別にそれでいい。研究者であるわけでもないので独創的である必要もない。「アイロニカルな没入」について書かれた部分を本書から抜き出してみよう。
「アイロニカルな没入とは──あらためて確認しておけば──意識と(客観的な)行動との間の、独特の逆立の関係を指している。意識のレベルでは、対象に対してアイロニカルな距離を取っている(「ほんとうは信じていない」と思っている)。しかし、行動から判断すれば、その対象に没入しているに等しい状態にある(実際には信じている)」(p.233)
現在のわたしたちの社会を作り上げてきた、過去の「力」とは何か。そして、現在においてその力が不在であることの由来はどういうことか。明示的に書かれてはいないが、本書の問題意識はそのようなところにあるのだろう。
本書には、一定の知的射程が備わっているとおもう。
「おたく」は1970年 ★★★★★
「おたく」は1983年と書かれている。
「おたく」は、1970年より前から、
あなたのことを「おたく」ということばを使う人たちのことを指していた。
近代史なのに、なぜ10年以上誤差があるのだろう。

人の書いたことを引用して書いてはいけないことを指示している。

不可能性の時代とは、人の書いたことを引用してはいけない時代だということを著者に送りたい。