一家没落の完成
★★★★★
母エリーザベトの死によってトーマスは家の売却を決意する。永眠についた母の遺産をめぐって隣室で繰り広げられるトーマスとクリスチアンの兄弟喧嘩は何度読み返しても飽きない。仕事一徹の兄を冷酷だといって非難する遊び人の弟に対し「ぼくは君のようになりたくなかったからこうなったんだよ」とつぶやくトーマスの台詞は印象的である。
心身ともに疲弊し、不出来な息子や妻の浮気によって何も信じられなくなったトーマスは、ふとしたきっかけでショーペンハウアーの『意志と表象としての世界(続編)』を手に取る。「死について」と題された章を一心不乱に読みふけり、その夜の寝室で哲学的真理に目覚めて嗚咽する場面は、個人的にはこの大作最大のクライマックスである。
だがそれも一夜限りのことであり、翌日から再び日常に流されてゆくトーマスは、歯医者の帰りに転倒してそのままあっさりと帰らぬ人となる。妻からも愛人からも同情されず、トーニは華やかな葬式の挙行にせめてもの慰めを見出す。
遺された一人息子ハンノの学校生活での一幕は、国や時代を越えて読む者に何とも言えない懐かしさを呼び起こす。辻邦夫が若い頃『ブッデンブローク家の人びと』を初めて読んだときに、読み終わるのが勿体無いと思ったと述懐しているのもうなずける。ハンノが戯れに弾く即興曲をまるで演奏が聴こえてくるかのように表現するマンの手腕は正に「言葉の魔術師」としか言いようがない。このハンノの早世によって物語は終わるが、その幕引きのテクニックもまた名人芸である。
「マンの全ての作品が滅びても『ブッデンブロークス』だけは生き残るだろう」と、本作に触発されて『楡家の人びと』を書き上げた北杜夫氏は言っている。これほどの名作、かつ今は亡き望月市恵氏による名訳が、品切れ中という現状には残念を通り越して憤りすら覚える。ぜひとも復刻してほしい。
岩波文庫休刊中の傑作
★★★★★
本作はマンの出世作であるばかりでなく、ノーベル文学賞受賞作でもあり、マンの代表作の一つに数えられる作品だそうだ。その長さについ躊躇がこれまでは先立ち私は今回初めて読んだが、なるほどそういわれるに足る十分に魅力的な長編であり、岩波文庫で3巻に及ぶ長さもほとんど苦にならない楽しい読書ができた。
25歳にしてこれほどの作品を書くマンの手腕には感服せざるを得ない。
何よりも登場人物の造形がすばらしい。実在の人物をモデルにし19世紀的自然主義的手法によっているとはいえ、各登場人物の生き生きとした姿を描き切る手腕は単純な写実主義ではない。作者のずば抜けた人間観察力と天才的ストーリーテラーとしての才気の賜物だ。読者は小説を読む喜びがここでは確かに保証されている。だがそれにもまして本作のマンらしいのは、ブッデンブロークというかつては繁栄を極めた商人一族が代を追うごとに衰退しついに絶家するという物語である点であろう。この一族衰退の物語は抗し難き時代の流れでもあろうが、そこにマン独特の人間観、人生観を読み取ることもできる。最後の嫡子ハンノの、現実から逃避しがちで芸術的性向ばかりが勝っているその姿は、マンその人の反映に他ならないだろう。
こういう名作は懐が深いだけに様々な読み方を可能にする。
私はこの一族におけるキリスト教信仰の盛衰の物語として読んだ。ハンノの父トーマスは現実をシビアに見る目を持つ実務派ではあったが、彼に決定的に欠けていたのは、信仰を生活の中に根付かせる習慣である。つまりおよそ非宗教的な人物だったのだ。この非宗教的人物トーマスが、更に輪をかけて非宗教的なゲルダと結婚したことでこの家の衰退は決定づけられた・・・私にはそう見える。不思議なのはトーマスの両親は二人とも信仰生活重視型だったのに、その息子娘達はそろいもそろって信仰心が欠落している点である。マン一族の実在の家系は実際どうだったのだろうか?マン自身はキリスト教信仰をどう考えていたのか?等々私なりの読み方で本作のことを読後の今も気にしているのだ。マンのファンを自負する私だが、残念ながらそこまで彼のことを研究しきれていない。
それにしてもマンは意外と最近の日本では読まれていないのか、岩波は今、本作の文庫を休刊にしているようだ。岩波も、時代に逆行した左翼の片棒担ぎなどいい加減にして、このような往年の名作を若い世代にもっとアピールする企業努力がもっと必要ではないかと思う。ドストエフスキーをうまくアピールして成功している出版社もあるようではないか。
マンを愛好する日本の作家で有名なのは北杜夫と辻邦生だが、三島由紀夫もまたそのひとりらしい。マンと三島、一見遠いようだが共通したものも感じられなくもない。そういう観点も読書の一つの参考にはなろう。