ドキュメンタリーとは考える材料である
★★★★☆
面白かったのは、第1章「ドキュメンタリーは何をどう撮ってきたか」(佐藤忠男氏)
と、第3章「ドキュメンタリーの実際」の中の「ドキュメンタリーの制作と上映の実際」(小泉修吉氏)だった。
佐藤氏は、日本のドキュメンタリーのこれまでをまとめながら、
また、小泉氏は、ドキュメンタリーの制作会社「グループ現代」での仕事を振り返りながら、ドキュメンタリーとは「何か」という大きなテーマに触れていた。
佐藤氏によると、ドキュメンタリーという言葉は、「ドキュメント=資料」に由来するという。
語源を想像すると、なんとなくそうだろうとは思うのだが、「ドキュメンタリーとは、芸術というより、考える材料である」という説明は、ドキュメンタリーの特長を簡潔に表していると思う。
小泉氏は、「私はドキュメンタリーとは、日常性の中に人間と社会の深層をのぞきこみ、存在の真実を探ることだと考えているので、日々の暮らしの経験の積み重ねから発する言葉には啓発されることが多々あるのだ」と書いている。
また、ドキュメンタリーの制作にあたり、「撮影や取材対象の人と心のかよう人間として信頼を築くことが、その基本にある」と指摘している。
ドキュメンタリーの制作は、取材・撮影する側と、される側の協働といえるのかもしれない。
視聴者の立場で考えると、私の場合、ドキュメンタリーを観る時には気合が要る。
ドキュメンタリーは、社会的に「問題」となっている素材を取り扱っている。観ているとき、そして、観終わった後にも、作品が訴えてきたものを受け止め、考えることを求められる。
それによって、思考の幅が広くなったり、深くなったりしたように感じることは多い。
しかし、観るのに気合がいるために、ほかの事に気を奪われていたり、疲れていたりして精神的に余裕がないときは、ドキュメンタリーを観るという選択を避けてしまうこともある。
本書で紹介されていた作品は、タイトルは聞いたことがあっても、観たことがないものが多い。図書館などで探してみたい。