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経済成長という病 (講談社現代新書)

価格: ¥777
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
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ぼくはこの本が好きだし、もっと読まれて欲しいと思うものの・・・ ★★★★☆
大田区の町工場出身の平川克美さんの著書。彼のブログをいつからか読むようになった。これけっこう好き。
http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/

表題の本(2009)は、すっきりした装丁に変った講談社現代新書の1冊。ぼくは講談社現代新書のクリーム色の字の多い装丁が変ったことにいま、気がついた。そういえば、ずいぶん前からあの装丁は見なくなっている。

さて、中身の話。

いろいろ同意できないところもあるが、以下の時代認識には深く同意する。
世紀末から2008年までの10年を以下のように表現している。

「この10年間とは、戦後から継続してきた経済発展至上主義が行き詰まりを起こして、新たな価値観による世界の設計(それが何かはまだ明確ではない)へ至るまでの移行期的な混乱であり、後の時代にターニングポイントとして記憶されることになるであろう出来事がちりばめられている。私たちはまさに、時代のパラダイムの転換に立ち会っている」

同意できないのは例えば41ページの「フェミニズム」の例
米国が自らを正当化するための「擬制」を必要とする、という文脈のなかで、その擬制を補完するための自由もチャンスも平和も、その社会の根本に、原理的に欠けているがゆえに、その欠落を隠蔽するために設えられた「正義」だという。これは理解できる。しかし、その文脈で「フェミニズム」が女性蔑視の裏返しだという主張は少し違うように思う。


また、小さな話だがコンビに弁当の16万キロの旅の話(おかずの材料などのフードマイルの計)、ここでその説明として、「食品が世界中を回る輸送費を補って余りある利益」という話が出てくるが、確かに利益が出るから遠い外国から食べ物が運ばれるのだが、なぜそうなるのか。そこにはここに上げられているような絶望的な貧富の不均衡がまずあるのだが、モノカルチャーや一次産品を遠距離動かして利益を得るシステムが存在していること。その遠距離の移動が見えない補助金に支えられていること。国際貿易を推進する多国籍企業や商社に隠された補助金が支払われていることもまた問題にされるべきだろう。

また、205ページには「都市化に向かう進展は自然過程」だとあるが、本当にそうなのだろうか。この都市へ都市へと向かう流れも、意図的に作り出されているのではないかと思える。確かにある程度までの快適で清潔な生活に向かう欲望を否定することはできない。しかし、それは「都市化に向かう進展」とは別の問題として考えられるのではないか。

食うことが困難な地域から、食えそうに思える場所に人が向かうのは、ある意味自然な流れだといえるかもしれないが、いままで食えていた地域を食えない地域に変えたシステムが存在するのではないか。歴史を超えるくらいすごく長い期間を持続可能な暮らしが成立していたのに、どうして都市へ向かう流れが、その長い期間から見たら、ほんの一瞬のような時間で生まれてしまったのか。それもまた「経済成長という病」の影響なのではないかと思う。そのあたりの認識について、平川さんがどう考えているかを聞きたいところではある。


で、いくつかの違和感も書いたが、大筋でここに書いてあることはそうだと思う。


この本の63〜4pに紹介されている 『経済成長神話からの脱却』という本のことをぼくは知らなかったので、ちょっとグーグルにのせてみた。

すごく興味深いやりとりがでてきた。
この本を読んだ中川村長の曽我逸郎さんと中川村職員労働組合 執行委員長のやりとり。
この村長が委員長 小林好彦さんに手紙を送っている。
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief/016_20070803.html
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 『経済成長神話からの脱却』を読んだ後、ふと思いついた。役場職員の給料と労働時間を2/3にして、職員数1.5倍にしたらどうなるか。余暇が増えれば、地域の活動や農業やそれぞれ自分のテーマに使える時間が増えて、職員の幸福度は上がるのだろうか? 少子・高齢化で活力を失いつつある村の各地区や、後継者不足に悩む村の農業には、いい効果があるだろう。役場職員労組委員長に意見を聞いてみた。
===
というのだ。

この村長、すごく面白い。去年の村長からのメッセージには
===
 5月3日、『自由と生存のメーデー2008 プレカリアートは増殖/連結する』に参加してきた。大変楽しかった。
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とある。ベーシックインカムに言及している。

へぇ〜、こんな村長もいるっていう感じだ。
ついついHPの村長からのメッセージを読んでしまった。
この話はまた書こう。


で、本の話に戻る。『経済成長神話からの脱却』が必要だという話はいろんなところでさまざまな人がすでにしている話ではある。ラミスさんがあの長いタイトルの本をだしたのもけっこう前だ。

いまさら、という話ではあるが、経済成長神話は根強いので、繰り返し、こういう本が出される必要があるのだと思う。

で、問題が整理されてわかりやすく提示されている部分を少し抜き出す。
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 多様な労働。しかし、労働=生産の形態は、本来多様でもなければ、自由うに選択したり交換したりすることができるわけでもない。(中略)多様な働き方というような言い方は、ほんとうは労働力を、商品のように欲しいときに欲しい量だけ自由に使いまわしたいと考えているものが振りまいた虚構でしかないと疑ってみる必要がある。
 多様性。国際性。市場性。実効性。自己責任。自己実現。これらは一連のマインドセットであり、グローバル化する世界の中で、市場競争に打ち勝つために必要な経済合理性を担保する思考方法を構成する特徴的なワーディングなのである。 94p
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 寒い冬の時代(いや寒い夏もだ)に死なずに生きてゆくために、動物と、その社会にとって必要なものはなんなのかと考えてみる。ひとつは、個体そのものの耐性力をつけることであり、もうひとつは生存のための行動の優先順位を間違えないことである(パンを分かち合うことは、社会にとってもっとも効果的かつ美しい防衛策だが、現在は誰もそれをしようとは思わないだろうし、実際にそのような互酬的な社会は当分の間は再来しないだろう)。
 ひとはしばしば、生存よりは、現在の生活を維持し、向上させることを最優先に行動する。そして少ないパンを奪い合うための効率のよい生き方を選ぼうとする。しかし、後退戦を戦うには・・・
 今、苦しい中小・零細企業の経営者に仲間の一人として言いたいことはひとつである。自社の苦難を分割せよ。そうすれば、・・・
 そして、いまやれること、やるべきことを点検し、組織の、最低限の生存ラインを確保せよ。・・・・
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これって、ひとつのサブシステンス志向なのではないかと思う。


それから考えさせられたのは194〜5pの派遣村をきっかけとする議論。平川さんは「この問題を考えるためには、企業とは何であり、社会のなかでどのような役割を果たすべきなのかというところまで思考のリーチを伸ばす必要がある」と書く。その上で、短期的な利潤確保のために労働力の商品化をどんどん進めることが、企業にも市場にもよくないと主張する。そして、企業はそもそも利潤獲得のために利己的なふるまいをする生き物なのだから、「利潤獲得のための利己的な行動と、労働者の利益が協同するシステムを見つけ出さなければならない。そして、そのために経営者も労働者も、同じ企業社会という生態系の中で生きているという論理を作り上げることができるかどうかが、いま問われていることなのである」と主張する。 195p

この、問題提起がすごく面白かった。

確かに「利潤獲得のための利己的な行動と、労働者の利益が協同するシステムを見つけ出」せればいいと思う。そして、現状は「企業社会という生態系の中で生きている」のだけれども、その中で生きるという以外の選択肢も含めて考えたいと思う。資本主義の枠の中でそういうことが可能なのかどうか。それが可能なら、それを資本主義と呼ぶかどうか、いまのところ、ぼくにはわからない。
ただ、市場というシステムはそれなりに便利なものではあると思うので、市場至上主義にならない限りは使うことになるのだと思う。だとしたら、企業も必要だろう。そういう中で「利潤獲得のための利己的な行動と、労働者の利益が協同するシステムを見つけ出」すことは必要といえるかもしれない。野放しの資本主義の問題については、この本の中にも枚挙に暇がない。

山之内=ヴェーバーにならって、別の世界像のもとに世界が動くことが可能であるなら、企業を「企業はそもそも利潤獲得のために利己的なふるまいをする生き物」という風に規定することがどうなのか、という問いも残る。


そんなこんなを考えさせられるいい本だったと思う。

あとがきにはこんな風に書いてある。
===
 私たちの身の回りに日々起きている事件を見ていると、・・・どこかでつながっており、ひとつひとつの事件は、そのつながりの端緒を探り出してほしいと叫んでいるように思える。
 端的に言って、そのつながりの端緒とは、ごく身近なところに存在しているが見落としているものである。それは、私たちが作り出してきたこの世界のシステムに、私たち自身がからめとられ、窒息している姿そのもののうちに潜んでいる。それが何であるのかを性急に名指すのはやめよう。貧困とか、差別とか、あるいは社会制度のひずみといった言葉で名指せば、その瞬間につながりそのものが、それを掴みかけていた掌からこぼれ落ち
団塊悟りに入る ★☆☆☆☆
本の内容を要約すると、
「我々は、経済成長に踊らされて金では解決できない大切なものをいろいろと失ってしまった。これからは経済成長にこだわらず(電子機器等に頼らない)コミュニケーションで絆を深めよう」
というありきたりなもの。ただ団塊世代の社長が主張してることが面白い。
経済成長にあやかりそこそこの人生を送ってきたくせに、「現在の惨状は経済成長のせいです」と言ってのけるような人間を基本的に私は信用しない。
破綻しかけている日本経済と社会保障、日本型雇用を尻目に、「もう経済成長しなくてもいいんじゃないの?それよりも人間らしい生活を送ろうよ」と言うのは、無責任です。
現在の日本が抱える諸問題を、経済成長や自分達の努力なしに解決しようとするなら、それはもう未来の世代にツケを回すしか術はないではないか。
そしてこれほど経済成長を享受してきた我々日本人が、今更経済成長を享受せず生きていくことができるのだろうか。
たぶん、この問いに著者は答えられないだろうし、答える気もないでしょう。
長期的な意識改革と短期的な経済成長の話が混濁している !? ★★☆☆☆
リーマン・ブラザーズが破綻し,人口が減少しつつあって,もはや経済成長がのぞめないなかでも経済成長によってさまざまな経済・社会の問題を解決しようとする政治から個人の意識までもが批判の対象になっている. 批判の重点は近所でたすけあうような共同体的なつながりがうしなわれてしまったひとびとのありかたに向かっているようにみえる. それは政治・経済というよりは個人の倫理の問題だろう. にもかかわらず 「経済成長」 を本のタイトルにしているところに違和感を感じる. 個人の意識から改革していかなければならない長期的なながれと,きょう,あるいはあすの雇用を確保するための経済成長とをいっしょに論じているところには,無理があるとおもわざるをえない.
責任を取る者としての思索者 ★★★★★
 「経済成長が人間社会の繁栄と進歩につながると信じて、私たちは競争を続けてきた。しかし、その努力を続ける中で私たちの社会は進歩したというより、むしろ退化したのではないか」。この問いをめぐって話は進みます。

 著者は2008年のリーマン・ショック以後の世界を生きている者として、「なぜこうなったのだ」「誰の責任だ」という自分を「被害者」の側に置いた他責的な言葉遣いではなく、自分もまたこの時代・社会の形成に関与してきた「加担者」であることを確認します。その「加担者」の視角から、これまでの自分のビジネスを検証していくと同時に、今私たちが立っている場所はどんなところかを丹念に描き出そうとします。ミシェル・フーコーの系譜学的思考です。けれどもそれは、混迷の時代を生き抜く処方箋なるものの提示にはいたらないし、快刀乱麻を断つのごときすっきりした話にもなりません。そういうものを求めて手に取った方は脱力するかもしれない。

 著者が繰り返し行っているのは、出来事の安易な理解と処方によって偽りの安心を得ることを自制し、出来事の因果の中で自分がどんな役割を果たしたのかを確認し、考えることです。

 そして、「あらゆる問題は経済が成長すれば解決する」という経済成長への信憑に著者は懐疑の目を向ける。しかし、経済成長そのものは良いも悪いもないので、それについてどうこう言いたいわけではない。そうではなくて、なぜ人々は「経済は成長しなければならない」という観念をそれほど自明のものと考えられるのか、あるいはなぜ経済はマイナス成長するという前提は意識から遠ざけられるのか。そのことを著者は問うのです。

 終章で、「いかなる人間も永遠に成長することはできない」という当たり前の事実、しかし同時に驚くべき事実に、著者は目を向けます。この事実を、経済学は自らの学問領域から除外します。あるいは主題化することを忌避する。しかし、「ほんとうはどこかで、人も社会も成長段階があれば老いていく段階もあるのだ、ということを勘定にいれて考えることが必要」だという著者の言葉は熟読玩味すべき言葉でしょう。そして、「人は永遠に成長できない」ことを受け入れるのが「成熟」であり、それを忘れては私たちは出発することさえできない、そうした著者の示唆は腑に落ちるものでした。
すこし振り返って見ようという本ですね ★★★★☆
今朝のズームインサタディで、経済アナリストの方が、一般消費税
の問題の議論の中で、法人税を下げて、競争力を高め企業の成長を
実現させる、そうして税収を増やせるし、雇用を増やせる、と言われ
ていた。「したたり」理論というのだろうか。

本書は、リーマンショックに起因する金融崩壊を、プロが予測できな
かったことなどを例に、専門家は既成の枠組みの中で、みずからの
成功体験を根拠に判断しているので、科学的な予測が出来ない。
瑣末な日常生活だけを熟知している素人の価値感は、なにも専門家
に劣っているわけではない、素人の直感こそが真実を見抜くのだ。
著者は、こうした観点から、現代社会の「俗説」を批判する。

消費の多様化、成長第一主義、グローバリズム、商業倫理、教育論。
新自由主義批判のところが、批判の基準のように思われる。
さて、人口増加や経済成長が低位均衡に収束するとき、諸問題を解決
する手立ては何か?
これが残された問題のようだ。
社会内ー存在としての「自己」を見直すことが提言されているようだ。
たしかに。