不毛の地を見据えること
★★★★★
「国家」というものがダンボールハウスなみのフィクションに堕した現在に対して、私たちは怒る力が/怒るだけの意志があるのだろうか。「自分自身への審問」を経た著者の言葉はより濾過されていて、濁りがなくなっている。
溢れる情報、その中に作為的な洗脳が、絶えず個人から全体に向かって、全体から個人に向かって行われる現在、自分の命をかけて真実を見ようとする意志がなければ曇りない眼を保つことはできないのかもしれない。
忌むべき世界をあえて見据える著者の眼に映るのは、「あきらめた人間」しかいない砂漠だ。それは恐らく紛れもない日本の現実でありーーーしかしそれでも文章は、荒れ地に湧く水のように出てくる。自分の体を賭けずに語ることは今、余りにも容易く、ただそのことだけが、見渡す限り思考不在の風景をつくりあげる。全ての答えは出ないままに、ただ、著者の眼/その比類なきカメラに映る映像の中に逃れることのできない私たちの現実が見える。
自分自身の為に恥を感じ、その克服に実存をかける
★★★★★
脳出血と癌を患い右半身に障害を抱える、元共同通信のジャーナリストで芥川賞作家でもある辺見庸氏による、1.書き下ろし「炎熱の広場にて」、2.2006年の新聞掲載文、3.2006年の「毎日ホール」での講演内容、で構成されています。
19世紀の(哲)学者、太宰治等の作家の言葉が多く引用され、我々日本人の恥(例えば第2次大戦の生体実験の事実をすっかり忘れていたり、コイズミ時代に自らファシズムを受け入れてしまう民族性)が白日の下に晒されます。
著者は日本のそして自分自身の恥を感じ、自身の精神を恥に曝すことで傷つけながら、限られた重い障害を持つ余生を自分自身の為に、恥を感じることの無くなった日本の社会・日本人の価値観を正そうと、その実存をかけて言論活動を必死の想いで続けていらっしゃると強く感じました。
そして、氏の言葉は自分の恥や欠点に気付かない振りをして、また気づきもしないで生きていては、本当の生を全う出来ないのではないか?と私に訴えかけてきました。
大切な人を失ったり、傷つけたりした中で、著者の魂の叫びの幾分かは聞き取れた気がしており、今、自分は自分の実存を何にどのようにかけるべきなのか、自問自答するきっかけとなりました。
以下の後書からの抜粋に感じ入るものがある方には、ご一読をお薦めします。
「メディア知」のみを絶えず食わされて、権力と市場と資本に都合のよいテーマだけを日々、投げあたえられ、もっぱらその枠内で発想し、喜び悲しみ反発するように導かれている。もうそろそろ、それを拒んでもいいのではないか。
たいしたことなのは、いままで口先で言っていただけのことに、一切の冷笑を殺し、(指の先から一滴でも血を流すような)万分の一でも実存をかけること
紅紫色の木槿のかげ―辺見庸の心性
★★★★★
別のレビューでも概評したことだが、私は辺見庸の所論に100パーセントの賛意を表せない。しかしながら、辺見庸という人間の心性はたまらなく好きだ。この単行本においても、私は特に「邂逅―紅紫色の木槿のかげ」という作品に惹かれてしまう。
それは、辺見が半身不如意となる以前に故郷を訪れた折のこと。中学時代の彼が密かに思いを寄せていた女性との思いがけない出会いと無言の別れ…。そして辺見は「木槿に身を隠すようにゆっくりと遠ざかっていった」彼女のそのときの挙措に対して、リハビリの歩行練習中、こう気付くのだ―私の脚のもつれはあのときの彼女のそれととてもよく似ている…(略)…結局、つらい姿を私に見られたくはなかったのだ―と。だが、辺見はこの随想の最後に記す。
もう一度彼女に会いたいなと思う。いまならば、彼女にせよ私にせよ、花の群れに身を隠すことはないだろう。二人してよろけながら海を見にいくのもいいかもしれない。
二人してよろけながら海を見にいくのもいいかもしれない―この一節を読み終えた後、私の眼前の文字に霞がかかってしまった…。
本書に感銘をうけることの恥
★★★★★
大半が講演内容を活字にしたものだが、得心しながら読み終えたことにわたしは恥じた。
自分自身は民主主義を標榜し実践しながら生きていると思っていたが本書を読んで打ちのめされた気分だ。
まさにタイトル通りであることに辺見氏へなんと申し開きができようか・・・。
とてつもなく苦い良薬
★★★★★
本書には、私たちが内面に抱える宿命的な恥、
そしてそれを無意識のうちに忘却することが、
日本型ファシズムの進行を許してしまうことに激しく憤る、
エッセーと講演録が収められています。
著者の憤りは、著者に賛同し寄り添おうとする者にも向けられており、
読んでいて苦しくもなります。
例えば難民キャンプの現実を傍観すること、
戦中の生体実験に無邪気に加担すること。
まことに痛いところを衝く書物です。
後半の講演録は著者のこれまでの主張が、
ご自身の闘病体験も交え、より先鋭に展開されます。
一番の批判対象は、本来の役割を放棄したマスメディア、
次いで、鵺のような日本型ファシズムの蔓延を許し、
自ら自由な公共空間を捨てようとする我々です。