「それはこの婚姻の席でイエスが「水を酒に変えた」という象徴的な出来事の意味である。 聖書の中ではイエスの奇跡として語られているこの行為は、実はイエスと弟子達との関係を暗示しているのだ。」
(遠藤周作「イエスの生涯」新潮文庫p.39)
「イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。・・・子を失った母の手をじっと握っておられたが、奇跡などはできなかった。」 (同p.95)
「現実に無力なるイエス。現実に役に立たぬイエス」 (同p.191)
「現実には力の無かったイエス。奇跡など行えなかったイエス。」(同p,213)
と、カナの婚礼における奇跡の事実性を否定し、イエスには「奇跡はできなかった」と繰り返し執拗に主張しています。すなわち、福音書における奇跡の記述はいずれも事実ではありえない、私はそのようなことを断固として否定する、と繰り返し明言しているわけです。
いうまでもありませんが、このような解釈は過去のいかなる教会教父、教会博士によって主張されたこともありませんし、現在のカトリック教会の教えでもありません。
第二バチカン公会議「教会憲章」58を読めば明白なとおり、ヨハネによる福音書第二章のカナの奇跡のエピソードの史実性は当然の前提とされています。
つまり、遠藤は第二バチカン公会議の教えを攻撃しているのです。
聖書の入門書としてはリチョッティ「キリスト伝」や、福者アンナ・カタリナ・エンメリックの著作をおすすめします。
また、遠藤が依拠した聖書学者の見解の多くがなんら論理必然的なものでないということにかんしては、William G.Mostの著作を参照することをおすすめします。(Catholic CultureやEWTNといったサイトで公開されています。)
また遠藤周作は「私にとって神とは」(光文社文庫)p.166、p.215でテイヤール・ド・シャルダンを絶賛していますが、ヴァチカンはこの本の初版の出版の前に二度にわたってテイヤールの著作に関する厳しい警告を出しています。
「(テイヤールの流通している諸著作が)カトリック教義に反する曖昧性や深刻な誤謬を含んでいることは十分に明白である。
それゆえ、・・・聖庁は、全ての教区司教、修道会上長、神学校校長、大学総長に、テイヤール・ド・シャルダン神父と彼の追従者の諸著作によって引き起こされている危険から、人々の精神を、とくに若い人々のそれを守るように強く勧告する。」 (WARNING REGARDING THE WRITINGS OF FATHER TEILHARD DE CHARDIN ,Sacred Congregation of the Holy Office )
以上のようなヴァチカンからの警告にもかかわらず、またそれは現在も何ら撤回されていないにもかかわらず、遠藤周作や上智大学教授百瀬文晃師、オリエンス宗教研究所をはじめとして、日本のカトリックの中にはテイヤールの教説を支持する人々が数多く存在し、またその言説は広い影響力を及ぼしています。大変危険な状況です。
テイヤール主義は、「進化する神」という思想を提唱している点で、神の不変性を主張するキリスト教の正統的教義と正面から矛盾するばかりでなく、神智学・ニューエイジ的疑似宗教にかぎりなく接近しています。現にニューエージャー自身が、自分たちの思想の先駆者としてテイヤールにしばしば好意的に言及しています。(ファーガソン「アクエリアン革命」実業之日本社など参照。)ニューエイジ運動は教皇ヨハネ・パウロ二世の著作「希望の扉を開く」(新潮文庫)で、「新たなグノーシス主義」として鋭く批判されました。
テイヤール主義に関する最も徹底した批判文献としてつぎのものをおすすめしておきます。
Wolfgang Smith,Teilhardism and the New Religion (TAN Books)
特に結婚生活においては、連帯感や、人生の伴侶となった不思議な縁を感じながらも、出会った頃に感じた「燃えるような熱い思い」は薄れ、安定した生活を送るだけの毎日に空虚感を感じ、その気持ちをどうすればよいのかわからずにいる女性が多く存在するのではないだろうか。
ではそのような生活の中で、女性がひとりの男性を愛し続けるためには、どのような生き方をすればよいのか、それについて遠藤周作の想いが綴られた一冊である。
もしあなたが今、パートナーとの関係に少しでも寂しさを感じているのであれば、是非手に取って読んで欲しい一冊である。