前漢以前の古文献を専門に取り扱うなら必読
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はじめに、5つ星をつけていますが、本書は対象読者層がある程度 限定されます。議論のコアはとても明快なんですが、もともと余嘉錫という博覧強記の碩学による文献学の論著ということもあって、固有名詞や術語がこれでもかと出てくるからです。一応、巻末に用語集も用意されてはいますが、ある程度、中国の文献学に習熟した大学院生以上が、主要な読者層になるのではないでしょうか。
本書に挑まれる方には、是非、内山直樹氏による巻末の解説から読み始めることをオススメします。原著者である余嘉錫の経歴や、著作、学問背景、本書の問題背景などがとてもよくまとめられています。(中国の伝統的な序文(跋文)の体例を意識されているようですね。)就中、その第二節と第四節が、本書を理解する上で特に重要です。
中国の古典文献は、大半が後世の者の手にかかる「偽書」(fake)であるといわれています。余嘉錫が生きた時代は、まさにその「偽書」をあぶり出すための真贋鑑定(「弁偽学」)が盛んに行われた時代でした。ところが、余嘉錫はこうした「疑古」と呼ばれる姿勢に疑問を持ち、そもそも「古書の体例」がわかっていれば、「真」「偽」という評価軸にはならないはずだと考えます。
「古書の体例」とは、大雑把にいえば、前漢以前に通行していた「古書」(古文献)の体裁モデルを意味します。一例を挙げれば、古書では撰者名を明記せず(巻一第二章)、しかも書名も撰者自らはつけない(巻一第三章)のが通例で、したがって多くの著作は、そもそも著者未詳のまま流通していたことが指摘されています。現在、伝わっている『韓非子』や『管子』といった書名や撰者名は、多くが後世になって追加されたもので、この書名や撰者名をもとに「真」「偽」を弁別しようとするのは「後世の基準で律しようとすること」(緒論)にほかならない、というわけです。本書では、このほかにも「別本単行」説など、「古書の体例」の片鱗を明示する鋭い指摘がいくつも展開されていて、「後世(⊇現在)の基準」に大胆な見直しをせまっています。
余嘉錫の没後、馬王堆・銀雀山・郭店などに代表される、紀元前の簡帛「古書」が多数出土し、古文献の成立時期をめぐる議論は加熱傾向にありますが、内山氏の解説でも指摘されているように、それによって本書の価値は減退するどころか、むしろ増している感すらあります。
少なくとも、前漢以前の古文献を扱う研究者・研究者志望の者にとって、本書は間違いなくMUST READでしょう。「後世の基準で律」する状況は、簡帛類が発見されている今日でも基本的にはあまり変わっていません。はじめて本書に触れる方なら、中国古代の書物に対する見方が大きく変わるはずです。また原書を既読の方でも、その時々の習熟度に応じて、きっと考えさせられるところがあるはず。