紀行書としても民族誌としても稀有な傑作
★★★★★
イラクといえば砂漠と戦争とテロのイメージが強く、湿地帯とかカヌーとか漁猟などといわれても普通はピンとこないと思う。しかし、このちぐはぐなところに惹かれて読んでみたら、実は、イラク南部にはかつて広大な湿原があり、そこには水上生活民(現地語で「マアダン」というらしい)がいて、水牛を飼い、魚やイノシシを獲って暮らしていたというのだから驚いた。
もちろん、こんな生活をしているマアダンは、いまはもういない。この本が書かれたのは半世紀も前のことだ。しかし、「古さ」を感じさせないばかりか、しばしば登場する現地の頑固おやじやカヌーボーイたちに親しみさえ覚えてしまうのは著者(と訳者)の筆力のせいか。
イギリスの元軍人である著者が約50年前にイラクに長期滞在できたのは、中東地域におけるイギリスの圧倒的な支配があったからにちがいない。しかし、イギリス人だからという理由だけで、現地の人びとにこれほど長きにわたって受け入れられたかどうか。現地の言葉ができて、ちょっとした医療技術を持ち、部族の習慣やしきたりを理解したセシジャーだからこそなしえたことだと思う。
マアダンたちが暮らしていた湿原はフセイン時代に徹底的に破壊され、いまは国連が中心となって復元を試みているという。その復元作業がどこまで進んだか知らないが、この本に描かれているような豊かな自然がそう簡単に回復するとは思えないし、ましてやマアダンがこの地に戻ってくることはまずないだろう。
いまはもうおそらく存在しない民族や自然についての本だが、純粋に読みものとして愉しめる。中東の歴史や旅行記、民族誌などに関心のある人にはとくにおすすめ。