繰り返しが多いが、仏教の原点に立つべきとの主張は首肯
★★★☆☆
霊魂説や輪廻説の否定、あるいは凡我一如説や神秘主義の否定、そして現今の仏教のあり方、つまり葬式仏教というあり方を批判し、氏言うところの「新大乗運動」が提起される。世俗的仏教観の批判と危機意識が根底にある。霊魂説や輪廻説否定など、言わずもがなという点がないではない。こうした議論は、一般的に事実関係の論証ではなく、説の論証に終始するので、肯定説は無視するほかないのではないでないか? どうでもいいけれど。
19章のなかで、おっと思った箇所があった。大拙氏の『日本的霊性』のなかで述べられた「大地性」という概念は重要だという指摘である。これは務台理作氏と筆者で交わされた話であるが、それ以上詳しくは述べられていないので、筆者の「大地性」の理解は分明ではない。けれども評者も大拙氏の「大地性」は極めて重要な概念であると思う。
長く版を重ねるべき迷著にしてぶらっくゆーもあな本
★★★★★
この書物は以前は柏樹社から『誤解だらけの仏教―「新大乗運動」の一環としてー』(1993/04)として刊行されていた単行本である。
ISBN-10: 482630076X ISBN-13: 978-4826300766
初版には著者に心酔する竹村マキオ氏(現在は東洋大学学長)のあとがきがついている。
この書物が大手な出版社からより的確な題名となって文庫化されたことは嬉しい。 仏教教義の理解として現代の日本国の僧侶、特に禅家の、はどのような陥穽に堕ちるに傾向があるのかを提示してくれている。それ故に「エンゲージドブッディズム」というものに関心を持つ人々には我が意を得たりとして膝を打つ見解に溢れている。
****
まず序文から輪廻観の否定が提示されるのには面食らう。輪廻観を受入れている坊さんたちをあきれたノータリンのように登場させて、この科学の時代に輪廻は成立してないことが明らかと主張している。また些細なことだが,ある神職(如何なる系統の人だか全く不明)を自分は高く評価すると書かれていることは重要な意味を持つ。今は化石的な存在となった、神仏習合・本地垂迹を受入れている古式の諸々な神道の伝統の人ではありえない(因に「古神道」という概念は実証的には妄想である)。著者はそれを最も嫌うようだから。
「近代科学主義イデオロギーと輪廻否定の中で座禅をするのが真実の仏教じゃ」というのがこの本の基調である。誤解された仏教というのはお釈迦さんから著者の生きていた時点迄を指している。
著者が本願寺蓮如の言葉を随所に引いて「仏教は無我」を繰り返すことがこの書物の構成上の特徴である。日本に於いて「無我」とは一般的には「無私」を意味していたことは山折哲雄氏の著作のいくつか(たとえば『日本人の宗教感覚』(NHK))に誰でも見ることができる。 つまり歴史的な日本人が「無我」という場合にはいきなり「空」といった中観派的な難しいことよりはまず、無私(→滅私〔奉公〕)を述べているか否かを想起すべきであろう。
さてそもそも蓮如氏どういう意味で「無我」と述べたのかに関して著者はなんら説明を加えておらず、唐突に出て来るのでめんくらう。並みいる戦国大名の中でも屈指の戦略家として知る人ぞ知る人物であり、近畿の商業・軍事上の拠点を押さえた大阪城はまさに石山本願寺城を手直ししたものである。猿太閤豊臣秀吉は織田信長公ではなくて本願寺蓮如を引き継いだことはその後の行動をみれば判る(家康公は〔北条〕早雲の志を引き継いだといえる)。蓮如氏の、文章は脇へ置いて、行動を追っていくと天才的な大衆組織者でもあった蓮如が語る場合は弥陀への「無私」、すなわち本願寺教団への滅私奉公が極楽往生へ直結すると述べているのだと自然に理解できよう。(ちなみにその見解が妥当かどうかは私にはわかりません、凡人にとっては死んでみないと判らないから。)その眼で「仏教な無我」だと述べていることを想起すれば、龍樹の名前は知っていてもチャンドラキールティ系統の中観派を彼が知っていた筈はないので、蓮如が述べる「無我」とはまずは「無私」であると理解してすることが妥当であろう。
一般書生齧りの仏教オタク(在家)が巷で主張しているように
仏教は無我を説いた、だからアートマンを前提としている輪廻觀はヒンドゥーからの混入物であるのだそうだ。
因にアートマンを輪廻の「主体」としてのアートマンというのはインドのもろもろな哲学の一部の見解にすぎない。
「魂が存在しない」と述べている人というのは身体は実体として存在していると述べているのに等しいことに気がついていない。
四法印の中にある「諸法無我」は「あらゆる事物は永遠普遍の実体として存在しているわけではない」というのが正確な意味であるが、「ぼわぼわ〜っ」と情緒的に禅的な「無」の情趣を味わって「羯ー!」と言われれば頓悟するとでも? 「無学」
「三学」という言葉も随所に見られる。その自体は雲照律師も常に述べていたことであって、結構なことである。しかし問題なのは秋月の戒律観である。持戒は自誓によるべしという意味のことを著者は書いている。自誓によって戒体が得られるのは三昧に至らなければ無理だが、戒師から授戒の儀式を得れば、日常的な意識で誰にでも可能である。それ故に鑑真和上は戒壇を日本に設けられたわけである。著者は科学を「信じる」ので戒体という形而上的な対象の存在は信じない。数学的な感覚を全く持っていないことが随所で判る。
「密教は仏教ではない」という記述も複数見られる。
神仏分離肯定、戒律否定、輪廻否定(四諦の中の苦諦の否定)、つまり三宝否定、
こうした己の私見を既成の権威を持って来て偽装させる。
学界の権威と知己であることを以て「高崎直道君は.....、」「末木文美士君は...」etc.と述べて業界内の人々に自分を権威づける。名前を挙げられている何人かにかつて聞いた事がありますが、単に著者とは顔見知りなだけで友人でもなんでもないということであった。
出発点は鱸(鈴木)大拙(ハゲ頭な在家の禅マニア)の弟子にして翻訳を中心にして西欧近代哲学を齧ったような(勿論、古代も中世もだめ)ものの妙心寺派に属して学んだ仏教に関しては中途半端な知識しか持ってない「無学」(仏教用語の「如来」ではなく、知識がない)著者は既成の権威が何よりも好きなのである。
著者が提示する視点をまさに仏教用語での「邪見」と呼ぶ。なかでも三宝否定は越法罪の中でも最も深刻な領域(最早懺悔が不可能)に属する。それでいて空海という人物が好きだそうである、空海を憎悪する日蓮が好きだそうである。そういう人々の見解に対して一かけらの敬意さえも抱いていないのに有名人との親近感を偽装する。まさにこういう輩を師匠だと崇めている者達(名前は伏せる)の程度が知れるというものである。 上から目線で「誤解された仏教」にも有益な点はあったと述べていること自体がなんとも滑稽である。
著者は身を以て誤解された仏教を提示してくれているので、知識ばかりか品性の上でも反面教師としては最上の部類に属する。この書物は初版の推薦文と共に必読書として永く版を重ねるべき本だと思います。
まとまりが悪いので暇な時に改稿します。
初学者には難解
★★★☆☆
本書の内容はタイトル通り、仏教に関する誤解を解く目的で書かれている。
「霊魂はない。自我もない。神もいない。輪廻もない。」にも関わらず、日本仏教は
これらがあたかも存在するように振る舞っていることを批判している。
初心者向けの本ではないので仏教に関するある程度の知識がないと、しんどいと思う。
また著者は、修行せずに頭で考えるだけでは分からないと主張しているので、本書だけでは
著者の主張を完全には理解できないようだ。
釈尊が「後有を受けず」といい切っていることを輪廻否定の根拠としているように読めたが、
それは釈迦が悟ったからであって、悟らなければ輪廻すると解釈出来るんじゃないの?
という気がする。私の理解が不足しているためだと思うが、よく分からない処が結構あります。
秋月師の怒り爆発
★★★★☆
このタイトルからすると、一般読者相手の啓蒙書かと予想しますが、
読んでみるとかなり違います。
前半は、僧侶や仏教「学者」の「妄説」や「歪曲」に対して
秋月師が怒りを爆発させた内容で、不謹慎ながら、「まあまあ」と
なだめたくなります。
後半は、仏教が何故無神論であるか、無霊魂論であるか、というような
論題について、禅の考え方や西田哲学の考え方を導入しつつ
論じておられるのですが、私の理解では、結局は言葉では説明できず、
悟らないとわからない、という結論になっています。
それは間違いではないでしょうが、それなら何故、言葉で延々と説明するのでしょう?
さらに私見を述べれば、著者の論旨に従うと、仏教は無神論であり、無霊魂論で
あるのみならず、非「無神論」でもあり、非「無霊魂論」でもあると思うのですが。
耳障りな点としては、この本は、雑誌の連載にあまり編集の手を加えずに成ったらしく、
同じ台詞が何回も出てきます。
内容から言ってあまり一般の読者がターゲットとは思えず、
かといって専門家向けでもない、やや荒削りな本ではないかと
思いますが、秋月師の考えを理解するためには、読んでおいて無駄はないと
思いました。
誤解の見方
★★★★★
仏教観、というか、仏教をどう定義するかと考える場合に、一方には、釈尊が体験した「悟り」や彼が唱えた教えと、その原理に忠実に生きた後の高僧や思想家たちの発言のみを仏教とする立場があり、これは大学で仏教学を学んだり、もともと一般人であったが各種の仏教書やセミナーなどで仏教を勉強した人に多くみられるスタンスである。他方に、いわゆる「葬式仏教」や「祈祷仏教」など、昔(特に江戸時代以降)から今に至るまで、日本の寺院や僧侶が深く関わってきた慣行もふくめて、おおよそ「仏教」の一種と見なされたものはすべて仏教として捉える立場がある。こちらは、現場で働いているお坊さんや、歴史や民俗のなかで仏教が果たした役割に感心のある人々が採りやすいスタンスである。
多少「誤解」があるかもしれないが、著者は前者の原理仏教的な立場だろう。そして、評者は後者の立場である。よって、本書を読めば必ずや違和感を抱くだろうな、と始めから思いながら読んだのだが、そうでもなかった。原理に執着しつつも原理からできるだけ離れて思考してみようとする、著者のバランス感覚のため、であるといってよい。
無論、例えば著者は、「初期経典で、釈尊は「後有を受けず」といい切っている。悟ったら、もう輪廻の生死は解脱した。だから、私はもう後有(死後の存在)は受けない、という。これは明らかなアフター・ライフの否定である」と、あくまでも釈尊の提示した死後に関する真理を忠実に固守しようとし、「葬式仏教」のように、「あの世」をめぐる行動やイメージと密接につながった生活慣習の中の「仏教」に対しては懐疑的である。この点は間違いない。
しかしその一方で、例えば以下のような見解も述べている。「日本人は死者をホトケという先のような誤りに落ちたが、そのおかげで「怨親平等」という、これまたなんともすばらしい思想をもつことができた。それは「彼は死んだ、死んだ人はホトケさまだ」と考えることによって、それまで殺してやろうかとまで怨んでいた者を、愛する親しい人と平等――怨親平等――に許してしまう、という思想である。これは日本人が、仏教から学んで得た一つのとても大事な心であった」。仏教でいう「ホトケ」とは、悟ったもの、目覚めたもの、の意味であるが、しかるに日本人は、それを「死者」と同義であるとみなす「誤り」をおかしてきた。だが、その「誤り」のおかげで、あらゆる他者に等しくやさしくなれる、すばらしい思想を育むことができたではないか、と著者は言うのである。
「誤解」は「誤解」であると断じる。けれど、その「誤解」がもたらした利点についてもちゃんと考える。このような懐の深さ(著者は、仏教において「折伏」を否定し「摂受」を重視する)があるからこそ、この本は、著者とは異なる仏教観を持つ者にも、十分に得心のいく内容になっているのである。