"近代人"岩崎彌太郎がひそかに人知れず「会社」において実行した"精神革命"
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本書は、「政商」であった岩崎彌太郎の生涯を描きながら、会社員経験をもつ小説家が、「会社員であるとはどういういことなのか? 会社とはいったい何なのか?」というテーマを追求した渾身の一冊である。歴史研究書でも評伝でもない。
最近の新書本には、長くて内容がパンパンに詰まったものも少なくないが、「明治の政商」を描いて300ページを越える本書もまた、単行本なみに充実した本であった。扱った時代が時代だけに漢字の多い文章が続くが、最後まで飽きずに面白く読み通すことができる好著である。
今年(2010年)のNHK大河ドラマ『龍馬伝』は、同じく土佐藩の下士(下級武士)出身である岩崎彌太郎が坂本龍馬を回想するという形をとっているが、本書を読むと、岩崎彌太郎の実像はドラマで描かれる虚像とはかなり異なることが理解される。大河ドラマは、しょせん舞台設定を過去の日本に設定した現代ドラマであって、歴史そのものとはほど遠い。
本書で描かれる伝記的要素はもちろん面白い。私自身、日本史の教科書や、かつて何度も読んだ岡倉古志郎の『死の商人』(岩波新書)に描かれた岩崎彌太郎像をもって、戦争を利用して海運でボロ儲けした政商というイメージができあがっていたのだが、実像はかなり違うということにまた、驚くことになった。
岩崎彌太郎は、大胆にして小心という、成功する起業家に特有の資質を兼ねあわせただけでなく、士農工商の「商人」出身ではなく、漢詩をつくる教養を持ち合わせた「武士」出身の、あたらしい時代のビジネスマンであった。このことは大きな意味をもっていると著者は指摘している。
江戸時代の商人は、丁稚奉公という形の住み込みでキャリアをスタートし、奉公期間が終わるまで結婚する自由もなかった(!)ことを考えたとき、岩崎彌太郎の「会社」とは「自由意思による決断」、すなわち「いやなら辞める権利がある」という会社本来のあり方を実現したものであったことに気がつかねばならないのである。これが著者の着眼点だ。
身分でも、家柄でもなく、あくまでも個人の自由意思によって参加した営利企業は、「前近代」と「近代」をわかつものであったのだ。「岩崎彌太郎の精神革命」は、人知れず静かで行われていたものであった。
考えてみれば「会社」と「社会」という日本製の漢語表現は、「会」と「社」という漢字をひっくり返した関係にあるが、もともとは「結社」を意味する society の訳語としてつくられたものであり、意味は同じだったのだ。
いまわれわれは、「近代」から「後近代」の移行期にいるわけだが、現在から振り返ると、「岩崎彌太郎の精神革命」の意味はきわめて大きかったことに著者の指摘によって気づかされた。この近代の遺産をどう捉えるかが、「会社」とは何かを考える意味で大きな意味をもつだろう。
長いが読み応えのある一冊である。ぜひ通読することをすすめたい。
あなどるなかれ
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小説家といえども、批判の多い司馬史観とは質が違う。
巻末に掲載されている、岩崎彌太郎、龍馬、大隈重信、幕末維新、経営史、に関する200を超える参考資料を見ても、一つ一つの史料を丹念に読み込んで、「岩崎彌太郎」という人物により深く、正確に迫ろうとする真摯な姿勢が窺える。史学科を卒業し、現在大学教授というプロフィールを読んで納得した。非常に読みやすく、すぐれた論文である。
三菱財閥の始祖である岩崎彌太郎は、なかば忘れられた存在で彌太郎関連の著作もほとんどなかったらしいが、大河ドラマによって急にスポットライトを浴び、「坂本龍馬の海運・貿易への夢を継ぐ者」という内容で何冊もの本が刊行されているらしい。しかし、そのような「評価」には無理がある。と冒頭で軽く否定をしている。
三菱のマークがいかにして生まれたのか、などのトリビアはもちろん、彌太郎の妻が土佐の習慣に従って夫の遺体を土葬にしたため、警察沙汰になり腹心の部下である川田小一郎が罪を被った有名な美談も、ウェットにドラマタイズせずにさらりと触れているところにも好感が持てる。
本書は岩崎彌太郎という人物の人生をたどりながら書かれた会社論でもある。
「会社」は、単に利益を追求する企業を意味するのではない。人びとが自由な意志で寄り集って働く結社である。という主張を元に書かれた最終章は感動的ですらある。
役人の「給料を減らし、官位を下げる改革」を行い、不人気で罷免されてしまった谷干城について、「谷のような古風な正論家」を現実の政治には向かないといいつつも、「私はこの谷という不器用な人物が、なぜだか好きなのであるが。」「金持ちとは、昔も今も大きな借金ができる人のことだ」など、ところどころ著者の個性がにじみ出ていて、ニヤリとさせられる。
会社というのは本当になんなのだろうか?
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大河ドラマ「龍馬伝」でのステレオタイプな小役人風の岩崎彌太郎しか知らない人たちは、本書を読む事で、「史実」というものが多様な解釈が可能である事に驚くでしょう。少なくとも私はそうでした。
龍馬と彌太郎を映画「アマデウス」のモーツァルト(天才)とサリエリ(天才の才能を理解するだけの凡人)になぞらえた脚本だったので、まあ大河ドラマはしょうがないとは思うのですが、やっぱり創業者というのはなんだかんだいって器の大きい人であり、まして日本で初めての会社を創設した人なら、なおさらなのです。史料の中でも岩崎彌太郎氏の日記を一日ずつ丹念に読み込んで、一つ一つの文脈、行間を読み取っていく手腕は、さすが小説の手練れです。今後、幕末を研究する人にとって一つの重要な史料となるのではないのでしょうか?
元々この作者の、「会社という組織の下で働く不毛さ、不条理にがんじがらめになっていく様をなんだか軽やかに描いていく」小説の大ファンだったので、なんでまたこんなノンフィクションを出しているのだろう、と手にとって、後書きを読んで非常に納得をしたのでした。(伊井直行さんの小説のファンの方はぜひ後書きだけでも読んで見てください)
蛇足ですが、「濁った激流にかかる橋」が本当に傑作なのに、この新書の倍近くの値段がする形で発売されている事は文学界にとっては哀しい事件です。講談社文庫でもっと安価に発売した方がいいのではないかと思います。