いつ聞いても名曲
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名曲は色褪せない まずは詩が良い 詩の良さをSMAPらしいメロディーラインが包み込んでいるように思える これからの時期にはピッタリかな!!
切ない…
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SMAPって大人な歌もとても似合うアイドル。この切ない歌詞と曲はSMAPにとても合ってます。ずっと名曲として残るいい曲だと思います。PVもすごく綺麗ですよね。
まだ、赤ん坊だった私を連れて。。。
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これは、私のかすかの記憶を頼りに、書いています。この歌の本当の作者がだれであるかが私は知りたい。
本当の親でもないのに、私をみて、父親候補になった人(男性)が実母から、私を預かって、仕事していたように思う。二人or三人だったかな。阪神電車が走り、その周りにはいくつかの銀行があった。その男性たちは融資をうけようとしていたのではないだろうか。その人たちの会社のため。
小さな銀行、実は、その銀行はある財閥銀行の傘下でもあり、情報は敵(財閥銀行か?財閥金属?かも?)にもれていた様に思う。今から思えば。。。 実母は東京の銀行しか、知らなくて、お金をある人に貸そうとしていたが、大阪の地理かん(当時、東京の銀行支店が少ない)がなく、たぶん、お金を貸すことができなかったのではないだろうか。というより、ある女のいじめで、そういう風にされていたといったほうが正解かも。
{そのある女の子供が私に偽名を使って現れている。どうして、本名を名のらなかったのか、その理由、私をおとしいれるために近づいてきたからと推測ができる。なぜ、私をおとしいれようとしたのか、私の実母の死因に大いに関っているから、親子で私に近づいてきたのではないだろうか。?その女共と私の家の近くに住んでいるMDさんと関係があるとすると、話が通じるものがある。}
私は当時、その男の人(私をあずかった)のそばにいて、電話で株かどうかしらないが、その会話(英語)国際電話をしていたような記憶がある。その男性は決して、夢をアキラメナイ人だったように思う。(この人も、なくなったのでは?大人が数人やってきて、暑い部屋へ入れと言ったような。)
そこで、この歌、その男性か兄弟の人かもしれないが作ったものではなかろうか。と思うのである。最近。
私がまだ、幼児だった頃、この歌をある所の構内放送で何度か、歌ったような記憶がかすかにある。「あれから僕たちは何かを信じてこれたかなぁ。♪」
当時、その人の名前を呼んでいたのに、今はその人の名前の記憶がない。ある時、私はその人から、目をつぶるように言われ、いつまでも、そうしていたから、助かったけど、私を守ってくれた人は、どうなっていたのか、私は今、想像がつく。耳が痛いほど、熱かったに違いないはず。
私は、目をつぶっていたから、声だけしか、わからなかったけど。。。
人は私のことを「てっぺい」だと呼んでいた。女の子なのに!
2番目の私の母親(冨美)が多くの方が怪我や死んでしまった話を聞いて、私の養育費から、その遺族の方や、怪我をされた方の人に、手紙文を添えて、保険証書を送ったような記憶がある。もちろん、2番目の母も私の名前を知らないから、冨美が卒業した学校の校章から名前をとり、三井 ゆり としたように思う。ただし、数名、行方不明者(父上がかなり探した。)がいて、渡せなかったお金がどうなったか?私は知らない。そのときも、私は赤ん坊です。(歩くことはできたけど。)
なんと、その学校の出身者では、大塚 愛さんもらしいですけど。。。
癒されます。
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20をこえてから初めてこの歌が「こういう歌だったんだ」っていうのがわかりました。。
口笛のところでは涙がでました・・。変に強弱をつけたりしない歌い方がいいですね。
この歌は本当にSMAPに合ってると思います。
ぜひイヤホンで聴いてほしいです・
夜空の向こうには・・・
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僕が15の時に発売された曲ですが今になって歌詞の意味がわかる様な気がします。僕は2005年に1年間オーストラリア、シドニーの公立高校で日本語を教えました。不慣れな英語を喋りながら必死に生活していた中で現地の中国人移民の女性と出会い、恋愛をしました。互いの事情で帰国前に別れることになりましたが今でも彼女は素晴らしい人だったと思っています。『君に話した言葉はどれだけ残っているの?』『悲しみっていつかは消えてしまうものなのかなあ?』『全てが思うほどうまくはいかないみたいだ』といった歌詞は今の僕の気持ちをリアルに表しており天才、スガシカオの歌詞の凄さにも納得させられます。心の中で諦めた人ですがあの日々があったから今の自分があるのだと思います。彼女に対する感謝の気持ちを改めて感じ、同時に『夜空の向こうにはもう明日が待っている』という最後の歌詞を胸に毎日の仕事、勉強と自分の理想とする姿のためがんばりたいです。