「「せねばならない」と「すべき」は、こうして、リアルなものとシンボリックなものとしてお互いに関係する。欲動(drive)というリアルなものの命令を、逃れることはできない(だから、ラカンは欲動のステータスは倫理的なものだと言った)。シンボリックな理想としての「すべき」は、欲望の弁証法に絡め取られる(何かをすべきでないとするならば、この禁止そのものがそれをしたいという欲望を発生させる)。何かを「せねばならない」とき、それが意味するのは、いかにそれがおそろしかろうと、それを行う以外に選択の余地はないということだ」(p.164.)
さらに、本書のポイントは、この大文字の<行為>が、これまでにもまして「ユートピア」のヴィジョンへと架橋されていることである。以下が、本書最後の言葉である。
「薔薇の崇高さを日常生活の低俗さという試練のなかで認識すること(---)こうしたスタンスの政治的教訓(あるいはむしろその含意)は、既存の現実を神秘化したり、偽りの色彩で塗りあげることではなく、まさしくその反対のことなのだ。すなわち、崇高な(ユートピア的)ヴィジョンを日常の実践へとーーひと言で言えば、実践的ユートピアへとーー翻訳する力を奮い起こすことである」(p.232.)。