古本屋に埋もれていた田邊元の思想の独創性と先見性にふれた著者の、現在にその思想を生かし後世に伝えたいという熱意が伝わってくる本。著者が日本哲学の再興を強く意識していることと併せて敬服に値する。
本書の目的は田邊オリジナルの「友愛の哲学」の発見と再認識、つまり現代的意義づけである。「西田哲学と田邊哲学という“日本哲学”をかたちづくる二つの高峰と言われてきたものが、じつはひとつの大地を共有していることを、語りたかったのである」(第12章「絶対無に結ぶ友愛」)の思いに基づき、田邊の「場所の理論」と「種の理論」の解釈が展開される。
全編にわたり平易な語り口調で読みやすいが、田邊の原文を引用しながら展開する著者の思想には、数学や物理、そして哲学のかなりとがった用語とコンテクストがちりばめてられており、その内容についていくのには骨が折れる。
友愛の思想の源と内容に関する解説は、梅原猛や野上弥生子とのエピソードをからめて興味深い。そして、クライマックスは、ディラックの相対論的量子力学が導いた負のエネルギーあるいは空孔理論をして、田邊がそこに「愛即無、無即愛」を見ようとするところだ。おもしろい着眼であるが、それを称して「…確かに西洋ばなれした無の思考というものが潜在している」というのはやや思い入れが過ぎないか。ディラックの真空の解釈は、無の思考とは無関係に、単に方程式によって導かれた不可解な解の意味を紆余曲折しながらひねり出した描像であった。
田邊の哲学を知るにつけ、それが19世紀から20世紀に科学の発展に大いなる影響を受けていることがわかるが、その逆は一体あったのか。また、田邊の洞察力と先駆性に感銘を覚えるが、その「友愛の哲学」なるものは21世紀につながるのか。そもそも物理も生命科学も、田邊の時代からすれば、その様相を根底から相当部分変えてきているのだが。(澤田哲生)
明治の日本製哲学の創造者
★★★★☆
中沢新一が此処で取上げている人物は、開国後、西洋の思想に喚起されつつ、初めて、和製哲学の創造者たる人々の中の一人であり、西周を始めとする、中江兆民、西田幾多郎、鈴木大拙、南方熊楠、九鬼周三、朝永三十郎、三木清、和辻哲郎、三宅剛一、等々の系譜に連なる人である。勿論、田邊元は、この中に於いても、相当実力のある哲学者であり、活躍当時は力強い影響力をもった人である。しかし、大東亜戦争の敗戦の後、田邊元は、既に忘れられた思想家の中に入る人物であり哲学者であった。田邊は、最初、数学を専攻し、やがて、哲学に自らの道を変えた。京都帝大の哲学は、明治期から大正・昭和に掛けてつとに有名であり、それは多く西田幾多郎の名前に依るものであった。西田は、「善の研究」で、すでに、多くの哲学青年に名前を知られ、その本は、「愛と認識の出発」「三太郎の日記」と共に、旧制高等学校のバイブルであり、必読の本であった。
そんな中で、田邊が次第に忘れられていった理由はなんだろうか?おそらく、その価値を人々が理解しなかったのだ、と、云う説明が、一番近いのでは無かろうか?今以ってして、田邊元は読まれる事が僅かな独創的な哲学者なのだ。しかし、真面目に田邊を読む者は、その思考のパラドキシカルでアクロバチックな柔軟性、明晰な感性に目を見開かれるであろう。現代に於いても、哲学には流行があり、最新のモードを頭に吸収した、外国帰りの人が偶には目に付くが、もうそんな、横のモノを縦にしても、誰も驚きはしないだろう。論理実証主義の哲学は、L・ウィトゲンシュタインに端を発するが、「論理哲学論考」が、一見、洗練された「禅の公案」に似ている様に、哲学にも、そのスタイルの相性がある。田邊が、数学の出身であったのは、E・フッサールと通じる所があり、厳密で明晰性を尊ぶ、共通の土台を感じるのは投稿者だけであろうか。
難しすぎて断念
★★★★☆
面白そうなんだが、内容が難しすぎて断念。通勤途中に読むには疲れる。いつかはちゃんと読みたいが。残念。評価はできないのですが、星4にします。
忘れられつつある田邊元の思想に光を当てた功績は十分評価されていい
★★★★★
一言で言うと、「難しいけど面白い」本である。ただ、私の感じているある種の感動や達成感を、読者諸氏に一言で要約して説明するのが難しいことをお断りしておく。元々の田邊の文章があまりに晦渋なせいもあるが、本書の中間部など文意を追うだけで大変な箇所もあり、正直理解が及ばない部分もあった。中沢の著書の中でもかなりハードな部類に属するだろう。私も初版が刊行されてすぐ購入したものの、7年間本棚で眠らせていて漸く手に取った次第である。
というのも、田邊元の思想が社会学・現代数学・量子論・ライプニッツ・ギリシャ哲学・仏教思想、果てはマラルメの詩など非常に多面的な領域から紡ぎ出されているからで、それでも最終的に田邊の思想が「愛」の問題、つまりそれ自体は自立=孤立している個(人)がどのようにして連帯し、愛の共同体を作り出せるのかといった意外にナイーヴかつ切実な問題に向かっていたことを示唆している。
そこにたどり着くまでに、「種」=「個体」=「類」の関係性など、日常生活を支配している同一性の論理では説明出来ない社会構造や生命現象を、いかにして思考の対象にしていくのかが縷々述べられている。現代数学と量子力学と生命哲学がリンクする点などは大変に刺激的であり、種から固体が生成されてくる仕組みなどは、最近読んで魅了された生命学者の三木成夫を髣髴とさせる。
京都哲学は、一般にカント、ヘーゲル、ハイデッガー、あるいは禅といった純粋哲学の系譜で語られることが多いが、田邊の思想に関していえば、むしろ人類学や構造主義、ドゥルーズ=ガタリなどからアプローチする方が親和性があるようだ。
「厳密に学的か?」という点で、中沢新一の著作に疑念を差し挟む人が多いことは知っている。中沢の手法は、自分の直感に従って興味のあるテーマをジャンル横断的につなぎ合わせていくというもので、飛躍や類推が目立つ分、成功したときの爽快感や触発力は相当なものだが、失敗しているケースも少なくなく、(本書ではないが)ただのこじつけにしか聞こえない駄文も時折散見されるのは事実だ。
それでも、すこぶる読み辛く難解極まりない田邊元の思想に光を当て、それを万人にわかりやすく説明していることだけでも十分評価に値するし、西田幾多郎も含めた京都哲学が何を目指そうとしていたのかを現代的な問題意識で捉え直している点は新鮮でもある。
現実的な影響力はともかく、理性をここまで極限的に酷使して、抽象的だがスケールのでかい思考をしていた日本人が戦前にいたことだけでも驚きであり、ある種の感動を覚える。翻って現代の日本人の知的怠惰を痛感せざるを得ない。
ワクワクする組み合わせ! 中沢新一×京都学派
★★★★☆
中沢新一さんはずっとファンで、その作品にはいつも知的好奇心を刺激され続けて来ました。
その中沢さんが、私が個人的に研究をしている京都学派、それも西田に比べていまだ評価が
あまりされていない田辺を扱うというので(最近では合田正人、港道隆、酒井直樹、末木文美士など研究がぽつぽつ出ています)、さっそく購入し、一気に読みました。
(西田・田辺に代表される京都学派が、ポストモダンの先駆としてその思想のポテンシャルが
再評価されて来ているという時流、というか思想界の流行!?に鼻の効く中沢さんが乗った、というきらいもありますが・・・^^;)
中沢さんおなじみのアクロバティックな思考で存分に田辺・西田を料理していました。
アカデミックな研究ではなかなか出て来ない視点を提供していると思います。
(やっぱり中沢さんは「界域」の異才ですね。アカデミック/ポピュラーを自在に行き来して。
それを昔は「ニューアカ」と呼んだんでしたっけ^^;)
扱ってる内容は哲学ですが、文芸的な読み物としても充分に成立していると思います。
ただ、西田の精神分析のくだりは、本文中では触れられていませんが明らかに小林敏明『他性の文体』や
中村雄二郎『述語的世界と制度』の議論を下敷きにしてると思われますので、星5つの作品なのですが一つ下げて4つの評価とします。。
これはこれで好いと思う。
★★★★☆
中沢新一とかハイデカーが好きな方には推薦できる
本です。
田辺元の哲学や姿勢、人生も大変興味深いですが、
田辺元という哲学者を媒介にして、中沢はいつもの様
に彼自身の思想を表したかったのだろうな..
そういう素直さが彼らしいな..、と私は感じました。
京都学派の論理弁証法と、中沢の表現法には共通点が
多いですので、中沢好きの方も田辺元や西田幾多郎の
姿勢には共感できるのでは..と思います。
この本を読んだ後、田辺元の著作を読むと、逆に..
中沢新一という人のことが また少し見えて来ます。