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ハックルベリー・フィンのアメリカ―「自由」はどこにあるか (中公新書)

価格: ¥777
カテゴリ: 新書
ブランド: 中央公論新社
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自由と逃亡 ★★☆☆☆
 『ハックルベリー・フィンは、いま』(1985年)の続編に当たるような作品である。いま改めて論じなおしてみたら、といったところか。
 マーク・トウェインの最高傑作とされる『ハックルベリー・フィンの冒険』は、都市と辺境、文明と野生というアメリカの本質的な対立を見事に描いた作品とされる。これをアメリカ文学史に置いて、もう一度位置付けなおしたのが本書なのである。まず、先行するクーパーやメルヴィルと比較し、さらにハックの再解釈を行い、そしてハック以後のフォークナーやソール・ベローに影響を読みとっていく。
 しかし、いままた取り上げるべき問題なのかというと、そうでもないように感じた。著者のハックへの愛は伝わってくるが、文学研究としてはちょっと。
 アメリカ文学史の初学者にはいい本かも知れない。
社会の誤った常識により歪められた“良心”に従うより、自分の真に欲するものに導かれ“地獄に行く”選択をするヒーロー、ハックルベリー・フィン ★★★★★
マーク・トウェインの作品である“ハックルベリー・フィンの冒険”を中心にアメリカの文学史を解説した書。人間は自己のあるべき姿を見出しえないでいる宙ぶらりんの(サスペンス)状態で生きている。ハックは自然志向(精神の縛られない自由を求める姿勢)と文明志向(親友のトム・ソーヤーに代表される)との間に揺れながら自分のあるべき生(本当の自分、自己)を追い求めます。つまりハックは、アメリカの人間がどうあるべきかというトウェインが考えた結果の人物像です。この本では“奴隷のジムは持主のもとに戻るべきである”という当時の社会の常識に基づいた“良心”より、“良心”に背き“地獄へ行く”決意をしてジムの救出に乗り出すことで、ハックは自分の中の最も重要な価値をつかみ、存在の自由を自分のものにしたとしています。また、この自分の自由な存在を探求するプロセス自体が結果より重要で、プロセスそのものが“生”の証明であるとします。この本で他に取り上げられる作家はクーパー、ソロー、メルヴィル、ヘミングウェイ、フォークナー、サリンジャー、カポーテー、ベローらで、それぞれの作家とハックとの共通点が描かれます。おそらく多くのハックの読者は10代の時にこの本を読み、トウェインが込めた深い意味合いの充分な理解にはいたらなかったであろうと思われます。そうした意味で、ハックを既に読んだ読者にも未読の人にも勧められる一冊です。また、トウェインの未完の作品、“インデアンの中のトムとハック”などについても触れられており、ファンには必読の書になっています。ただし、作者自身も触れているようにトウェインはクーパーには批判的で、クーパーのインデアンの理想像の完全な否定が“インデアンの中のハックとトム”でされているので、クーパーとハックを同列に並べるのは疑問ですし、高貴なインデアンの理想像を抱いて旅にでる決心をしたのはハックではなくトムであるなどの誤記がある点は指摘しなくてはなりません。
「トム・ソーヤ」をもう一度読みたくなります☆ ★★★★★
本書は、東京大学名誉教授であり、

アメリカ文学を専門とする著者が

マーク・トウェインの小説に登場するハックルベリー・フィンを通し、

アメリカ文学・文化全体を概観する著作です。


著者は、ハックルベリー・フィン(ハック)のなかに

自由を求め、文明と自然の間でゆれ動く

という「アメリカ人の原型」を見出します。


そして、そのうえで

トウェインがどのようにハックを生みだしたのか?

彼以前の文学作品や、20世紀の文学作品の中で

ハックの「先祖」や「後継者」たちがどのように描かれたのか?を

作者の生い立ちや作品の特徴などを具体的に示して、論じます。


個人的には、まずなによりも

小さいころ漫然と読んでいたトムソーヤに

これほど深い含意や、多くの研究があったことに驚きましたし、


また、「アメリカ人の原型」に注目し、

アメリカ文学を読み解く試みはとても興味深く、

これから読む本はもちろん、以前読んだ本も

こうした点を意識して読み返したくなりました。



簡潔・平易な文章によって、トウェイン作品だけでなく

アメリカ文学全体を見通す、魅力的な議論を展開する本作。


トウェイン作品やアメリカ文学に興味がある方はもちろん

小説をより深く読みたい方など、多くの方に読んでいただきたい著作です。
古き良き時代のアメリカ ★★★★☆
 「ヘミングウェイが語ったように、アメリカ近代文学はすべてマーク・トウェインに始まる」とあるが果たしてそうだろうか。自然児から文明人になってしまうトム・ソーヤ−と、あくまで自由を求めるハックルベリー・フィン。これこそが自然と文明の間で揺れ続けるアメリカ社会の根源的かつ矛盾した欲求の原型である、とカバー見返しにはあるが、こちらのほうも果たしてそうだろうか。

 近代アメリカ文学が「すべて」マーク・トウェインに始まるというが、どうだろうか。WASPが社会を支配し、西部劇的なフロンティア・スピリッツを追い求める活劇世界が横行していた世の中であれば、確かにそうであった(かもしれない)。また1960年代までの、いまだ黒人差別社会を必要悪として受け止めていた時代であれば、そうであった(かもしれない)。具体的にはケルアックの「オン・ザ・ロード」の頃まではそうであった。しかし、WASPの時代から、黒人とか、ユダヤ人、ヒスパニック、エイジアン等々が資本的にも文化的にも台頭してくると、話は違ってきたんじゃないか。サリンジャーとか今最も脂の乗り切っているポール・オースターが出てきたように・・・・・。

 マーク・トウェインは晩年、極めてペシミスティックになり、「人間とは何か」とか「不思議な少年」を書いているが、これらの作品は、文明批判の鋭い視点から書かれている。これらの作品についての言及が一言もないのは少々残念である。むしろこれらの作品のほうが、現在のアメリカ文学に繋がっているのじゃないだろうか。