怨霊になった偉人が神に祀られた
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洋の東西を問わず、権力者とは別の価値観で生きる人間は、当然のこと権力者との対立を生み、彼らは破滅に直結していく。わが国に例をとれば、歌道あるいは文学の神というべき柿本人麻呂、学問の神というべき菅原道真、演劇の神というべき世阿弥、茶道の神というべき千利休は、いずれも死罪あるいは流罪となった人間である。しかし、彼らは非業の死を遂げることによって【怨霊】となり、彼らを罪した権力者に恐怖を与えた。そうして、神に祀られ、それぞれの分野の祖となった彼らを【神】とすることによって、文学や学問や演劇や茶道は、この国で見事に栄えたと言える。
もう一人、怨霊となり、神になり、更に仏となった偉人がいる。聖徳太子である。太子は生前において偉大な政治的業績を挙げたが、死後彼の子孫が時の政府によって滅ぼされたことによつて【怨霊】となり、神としてではなく【仏】として祀られた。親鸞は太子を「和国の教主」と呼ぶが、太子は生前の偉大な業績によってそうなったのである。
日本においては、学問や芸術は怨霊によって【永遠】になるという皮肉がある。