著者は19~20世紀の西洋における小説およびマスメディアのテーマを「植民地支配の武器」という観点で検証、さらにそういった帝国の支配に対して「被支配者たち」が見せた言語による文化的抵抗を鮮やかに分析している。前述の「ペンは剣よりも…」を考え出したのがビクトリア朝時代のイギリス人ブルワーリットンだったのは単なる偶然ではない、とサイードは主張する。
言語による治世学ともいうべき方法論を考察した、ポストコロニアルのバイブル的1冊。
必然的に、植民地世界をよく描いたと思われるキプリング『キム』やコンラッド『闇の奥』のような作品についての文章は、情熱がこもってくる。逆に、この英文学者は仏文学をあまり好きではないのか、評価が低い。とくにカミュ『異邦人』に対しては一方的な批判ばかり目立ち、判りやすいが出来の悪い評論文になっている。これでは、「帝国意識」論とほとんど同じ視座だ。
なお、植民地人の文学的営みについては、本書だけではわかりにくい。アッシュクロフトらの『ポストコロニアルの文学』青土社やRushdie, Imaginary Homelands: Essays and Criticism, 1981-1991 , Granta Booksをぜひとも併読する必要がある。
この書で、サイードがしばしば強調するのは、自己を揺さぶり動かす他者(他者の文化)との出会いにおいて、超客観的なアルキメデス的な梃子の支点、利害や葛藤から自由な特権的解釈者は存在し得ないと言うことである。現実の観察者は、権力の後ろ盾を頼りにしたりしながら初めて可能になるからである。サイードが本書で評価を惜しまない二人の作家、コンラッドの『闇の奥』とキプリングの『キム』も、その例外ではない。彼らは高い芸術作品をつくりあげたが、同時に植民地主義的権力を前提に物語ることが可能だった。それを、サイードが見事に批判的に吟味することになる。ここで忘れてはならないのは、植民地主義の権力関係なくして、これらの芸術が生まれることもなかったということ。サイードのポストコロニアル文学批評は、その矛盾を引き受けようとするのである。彼が、様々な作家を褒めたり批判・非難したりするのは、そのためなのだ。
歴史学者の「帝国意識」論は、もっぱら粗野な偏見や尊大な思想を歴史に見いだす。しかし、文学批評家のサイードの仕事は、植民地支配を正当化するイデオロギーだとか、文化的偏見がテーマなのではなく、あくまでも、すぐれた芸術作品とみなすもののなかにある帝国主義あるいは帝国主義批判を論じることである。だから、良くも悪くも、かなり難しい書物になったのだ。