砂上の樓閣
★★☆☆☆
前作の『本当は怖ろしい万葉集』では、「古代韓國語」で萬葉集を讀む試みに頼る部分が多かつたが、本書ではそれほどでもない。
萬葉集では時代がすすむにつれて、「略體歌」が減り1字1音表記になつてゆく。
つまり、漢字を表音文字として取り扱ひ、「ひらがな」のやうに讀むことが出來るやうになる、といふことだ。
さうなると、もはや「古代韓國語」とやらで解讀する餘地がなくなるといふことだらう。
さて、「古代韓國語」の出番が減つたとはいへ、本書で展開される著者の主張は一般常識からは懸け離れてゐる。
別に一般常識がすべて正しいといふわけではないので、懸け離れてゐることはよしとしよう。
しかし、假説を導きだすためのロジックが脆弱だ。
假説を立ててもその檢證が出來ないため、假説をそのまま前提にしてまた新たな假説を立てて行く。
一例を擧げよう。
【事實1】
『日本書紀』には、683年から686年にかけての筑紫大宰の名前が記されてゐない。
【著者の假説1】
その時の筑紫大宰は三野(みの)王である。
【著者の假説2】
名前を記載しなかつた理由は、「三野王が大津皇子に任命されて筑紫に行きながら、大津朝打倒の立役者として働いたからに他ならない」
これらの論理展開には、假説1の根據が必要だが、著者の示す根據は殆ど想像の域を出てゐない。
また三野王が「大津朝打倒の立役者として働いた」といふ、その具體的な行動についてはまさに想像そのもの。
さらに著者は最後にかう書いてゐる。
「『書紀』が三野王が筑紫大宰だつたことを伏せてゐること自體、三野王が大津朝を裏切つた事實を暗示してゐると私は考へてゐる」
ちよつと待て。
「『書紀』が三野王が筑紫大宰だつたことを伏せてゐる」といふのは著者の立てた「假説」に過ぎない筈。
それをもつてして、「三野王が大津朝を裏切つた事實を暗示してゐる」とはどういふことか。
だいいち、「三野王が大津朝を裏切つた事實」といふけれど、それも「事實」などではなく著者の「假説」に過ぎない。
本書を讀んで、「砂上の樓閣」といふ言葉があるのを思ひだした。
また、例へは適切ではないかもしれないが、「ひとつ嘘をつくと、その嘘をつき通すためにたくさんの嘘をつかなければならなくなる」といふ言葉も思ひだした。
聖徳太子って…
★★★★☆
ペルシャ人だったのか…。
とはいってもあの肖像画からは想像も出来ませんが(あの肖像画ですら太子じゃないという…?)。
まあ、あの時代ならどんな人間人種がやってこようが、不思議じゃあないですもんね。
ペルシャ製の水差しやら、切り子もあるくらいだし。
正史が隠蔽した古代史の真相を読み解く
★★★★★
『万葉集』は美意識を主題にした歌集ではなく、政治的意味合いの強い性格をもつ歌集であるというのは、著者の持論であり、前書から力説しているところである。本書では、万葉時代の山場である、天武朝から聖武朝にかけての政治興亡の実態に迫ろうと試みている。
まず、謀叛の罪によって刑死した大津皇子の歌「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨」の歌。この「鴨」は皇帝の玉璽の隠語で、大津皇子は天皇だったことを暗示しているという。大津皇子は磐余の池に溺死させられた。まもなく、山辺皇女なる人も水死、火葬されている。まだ、火葬の習慣のなかった時代である。著者は山辺皇女には「西」の観念から来ているとみる。日本に渡来し、定着するペルシャ人…ササン朝ペルシャ人とは…ペルシア王の冠と聖徳太子の冠はなぜ似ているのか…山辺皇女の正体=ペルシャの王女!このように推理していく罠、それに巻き込まれていくのも一興ではなかろうか。
次は、暗闘する皇子たちに移る。大津朝の崩壊、即位を目前にした草壁皇子の死、そして高市皇子の死、弓削皇子を殺した山の漁師とは?それもさることながら、唐と戦うため日本を後にする文武天皇にこだわってみよう。ひかえめながら「おそらく文武天皇こと新羅文武王は、唐国に反乱を起こすため、難波から日本を去ったらしい」という。この時、志貴皇子は難波まで従ったらしく「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて」と大和恋しい歌を作っている。この「鴨」も鴨印で前述の国王、すなわち文武天皇を指すという。
結びとして、万葉集の底に流れる怨念、それが著者をして「怖ろしい万葉集」を書かしめたモチーフではなかろうか。父大伴旅人は極秘のうちに藤原宇合らの指示によって暗殺されたとみなし、その子家持の怨念が『万葉集』には流れているという(雅)