インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

“性”と日本語―ことばがつくる女と男 (NHKブックス)

価格: ¥1,019
カテゴリ: 単行本
ブランド: 日本放送出版協会
Amazon.co.jpで確認
ジェンダー論の入門書としてはわかりやすい ★★★☆☆
内田樹は『女は何を欲望するか』で、欧米のフェミニズム言語論の主題のひとつ「女性の言語」の問題は、もともと「女のことば」が存在する日本語にはすんなり適応はできないのではないかと述べている。
本書はそんな日本語の「男ことば」や「女ことば」を「言語資源」ととらえ、それによって構築されるジェンダーポリティクスを読み解くとともに、「乱れている」と批判的にとらえられる女性の言葉遣いの「ずれ」を創造的な言語行為としてとらえ直そうとする。第3章までは、旧来のフェミニズム理論やフーコーの言説などが判りやすくまとめられていてよい。

ただ、2,3の疑問を。
本書で主に取り上げているのは、言語の規範からのずれと、それに対する批判的な言説である。女性達のことばの乱れと指摘されているそれは何も「最近の」現象ではなく、明治期に言語の規範が構築されて以来、女性は実践的にその規範を逸脱し続けてきたのだそうだ。
しかし、私が思う素朴な疑問は「うるせぇ」「ざけんじゃねえぞ」「あっち行けよ」という乱暴なことばを使う小学3年生の少女がいて(146p)、それを「正当化」する言説を模索するのは結構なのだが、「うるせぇ」「ざけんじゃねえぞ」「あっち行けよ」ということばを使わなければならなかった「少女の状況」についても、もう少し考えてみてもいいのではないか。男子であったとしても、ここまで敵意をむき出しにした言葉を使うことはそうはない。
本書のように言葉遣いでアイデンティティーが形成される構築主義の立場を取るならば、そのような「乱暴な言葉を使う自分」というのも、その少女のアイデンティティーに組み込まれることになるのだから。

まあそれはさておき、昨今叫ばれているのは「言葉遣いの乱れ」ではなく、むしろ「語彙力の縮減」ではないだろうか。「日本語の乱れ」論の論点はそちらの方に移っているような気もする。既存の規範からの「ずれ」を「創造的」ととらえるのはよいとしても、その当の使用できる「ことば」の数が減っているのであればそれは確率論の問題で、創造的な言語も生み出されにくくなるのではないか。しかし、本書ではそのような若者の語彙の少なさに言及する箇所はない。それは「言葉の乱れ」論に対してフェアではないだろう。

あと不思議だったのは「あとがき」。
何を思ったか筆者は「本書の新しさ」と題して、4つの「新しさ」を挙げている。
奇特なことをする人だと思ったが、バルト以降のテキスト論の立場に立つならば、前代未聞のオリジナルの学説というのは存在しないわけで、研究とは必然的に先行研究の上塗りを加えていく作業と同義になる(事実、この本もフーコーやセジウィックなどの先人達の理論に依拠した形で構成されている)。その前提に立つと、自分からここが新しいということをアピールするこの人の身振りは、なんだか不思議である。
あっ、この人は「作家の死」を信じていないのかも。
新しい視点での野心的日本語論 ★★★★★
 本書は日本語を従来とは全く異なる視点で、自由で豊かな日本語の姿を描き出している。それは、私たちは「ことば」を資源として利用することで、創造的なさまざまな人間として立ち現れているという視点である。
 その視点は、次のようななものである。
(1)日本語をセクシュアリティーの側面から見る視点。特に、ジェンダーとセクシュアリティーのねじれた絡み合いが、日本語にどう影響しているか。つまり、日本語の語彙や使用法には、「人間は男か女のいずれかである(男中心、女例外)」という異性愛規範が深く埋められているということである。
(2)日本語を消費社会の側面から見る視点。経済の変動に伴って私たちのアイデンティティが変化している。2007年には、なんと男性雑誌にも「着まわし」が登場している。男性ファッションに起こった変化から「男らしさ」に注目する。
(3)日本語には、特定の集団に特権を与えているイデオロギーとしての側面。セクシュアリティと資本主義から見ても日本語は異性愛者や消費者に特権を与えている。
(4)イデオロギーとしての日本語という視点。正しい日本語に縛られた息苦しい状況を打開する具体的方策を提案している。専門家の意見を無批判に受け容れるのを止めること。私たち自身が言葉づかいに関する「メタ言説metapragmatics」を発信する。言葉に対する昔ながらの「常識」に問いを発する。
 日本語は、長い歴史の中で育まれてきた豊かな言語であるが、正しさとは別の観点から見るという視点である。「正しい日本語」という呪縛から解放されて、もっと新しい日本語観はないものかを模索している注目の一書である。