誰もがナショナリストであるという結論
★★★★☆
著者の見解ではナショナリズムとは右翼の専売特許でもなければ、右左を明白に自認している政治的な人間に特有のものでもなく、この国に生きている限りはほぼ全員が無意識に持っているものである。私も日本で日本語でこれを書いている、しかも家の中で靴を脱いでいる。その時点で私は既にナショナリズム的なものを自身の内に含んでいるのだ。ナショナリズムはただそういうものでいい、そういうものでもいい。あるいはある立場の人に言わせればナショナリズムはそういうものとしてしか許容できない場合もあるだろう。ただ言えるのはこういったナショナリズム観からすればナショナリズムをナショナリズムであるというだけで否定するのは賢明ではないし、同時にそれは不可能であるという事。同時にあいつには愛国心がない、ナショナリズムと無縁だと右翼的に怒るのもおかしな事と言える。実際、著者は最後に積極的に自分の見解を話すにあたってそういう事を言っている。
著者は最終章でナショナリズムを積極的なナショナリズムと消極的で防衛的なナショナリズムに大別している。前者は国家の名誉を重んずる愛国であり、後者は国益を重んじる愛国である。国益は時に名誉を犠牲にし、名誉は時に国益を犠牲にする。もっと重要なのはやはりこの二つのナショナリズムも左右両方に持たれているという事だ。例えば「日本では」護憲か否か、9条を神格化するか否かで左右が判別されたりする。しばしば護憲派である左翼は国益を考えない売国奴であると右翼から罵られる。しかし護憲派の話を聞いてみると、彼らが護憲を唱えるのは、他ならぬ我々の国「日本」が世界において平和憲法を維持することで「名誉ある地位を占める」ためであったりする。これが正しいとか適切かとかいう問題は棚上げにするとして、とりあえずこれを見れば護憲派左翼にも明らかなナショナリズムの精神がある事が伺える。この場合は特に積極的なナショナリズムである。
このような分類から示唆される事は多い。例えばこれを聞けばナショナリズムと保守主義、右翼思想が直結すると限らない事が分かる。積極的ナショナリズムは普遍的理念を指針にする事が多いが保守主義はまず普遍を認めないし、理念のための積極的ナショナリズムは容易に左翼思想とも結びつくからだ。実にナショナリズムとは多様なものなのだ。
我々が当然の如く日本語を使い、日本人の偉業に喜び、玄関で靴を脱ぐような生活に染み付いたナショナリズムは消極的なそれであり、防衛的なそれであり、収斂型ナショナリズムとも呼ばれ、実はそれはエゴイズムに基づいているとされる。現代の日本では至る所でこの収斂型のエゴのナショナリズムが持たれている。というより、それは基本的に持たれなくなったりはしないというのが著者の考えであり、従って著者は日本人の愛国心の問題などについては楽観的である。一方で理念や名誉を重視する積極的で拡張的なナショナリズムは絶滅的に少ないというのが著者の認識だ。著者はそれでいいのではないか、と言う。著者のこの立場は左右両方面から批判を浴びるかもしれない。何故なら右はナショナリズムの欠乏を嘆いているのが常であるし、左はナショナリズムの過剰に怯えているからだ。この二つの矛盾した警告が同時的に発せられているというのは少し面白い事であると思う。
良書を紹介する魅力的なナショナリズム入門書
★★★★☆
ある国に価値を認め、それを基礎に展開される知的考察がナショナリズムだが、それは思想というよりもっと幅広いもので、我々のほとんどが無意識のうちにその上に乗って考え行動する前提のようなものだと著者はいう。そのため本書は、いわゆる思想書にとどまらず、唱歌「戦友」や司馬遼太郎の歴史小説、さらには漫画「男一匹ガキ大将」など多様な素材を、近代日本のナショナリズムを表現する著作として読者に紹介していく。この題材の選び方には、著者のセンスのよさを感じる。
第1章〜第5章では、ロシアを始めとする欧米列強からの脅威や日清・日露戦争をきっかけに、大きく盛り上がったナショナリズムを表現する明治期の著作を中心に紹介していく。今まで知らなかった内容が多く、かつ自然発生的に高揚した明治期のナショナリズムの雰囲気がよくわかった。
大正・昭和戦前期について著者は、侵略される脅威が遠ざかったことや台湾・朝鮮領有による多民族化により、ナショナリズムが退潮に向かった時期とする。思うに、ナショナリズム退潮を憂えた当時のリーダー達が、学校や軍隊で上からの教育によって愛国心を植えつけようとしたことが、かえって戦後日本人のナショナリズムに対する否定的な態度を導いたように感じる。
第6章〜第10章では、敗戦後の日本が経済大国への歩みを進めていく中で、日本人を突き動かし、猛烈に働かせる要因になった情念としてのナショナリズムを表現する著作を紹介していく。そして終章では、日本ナショナリズムを総括して、拡散型(積極的ナショナリズム)と収斂型(防衛的ナショナリズム)に分類し、ほとんどの日本人が抱いているのは収斂型だとする説明に納得させられた。
本書は、国の運命と人の行く末が結ばれていると感じた明治人「石光真清の手記」から、「公のために」=「国のために」なのだという、小林よしのり「戦争論」まで、紹介された全ての著作を読んでみたいと思わせる魅力的なナショナリズム入門書だ。
面白かった
★★★★☆
ゼミで小熊英二の『民主と愛国』を読む前になにかしら基礎知識を仕入れておこうと思って読んだ本の一つ。日本ナショナリズムの歴史が概観できる。
ナショナリズムは、「ロジカルな書物によって頭脳から教え込まれる以外にも、歴史物語などの大衆小説や映画、小学唱歌、各種スポーツ、軍隊の訓練や戦場で培われた強固な同胞(共犯者)意識などなどを用いて、情感や身体から滲みこんでゆく」(P23)と言う指摘はもっともである。その上で、小熊が70年代以降の大衆ナショナリズムの時代の分析に当たって江藤淳しか取り上げていない点を批判し、大衆小説家である司馬遼太郎に着眼、分析していく。
しかし疑問に思う点も一つ。戦後初期のナショナリズムを、「民族独立行動隊」のナショナリズムだけで括れるのだろうか。吉田裕『日本人の戦争観』(岩波)によると、50年代にはすでに「戦記もの」のブームが到来している。このような平和主義の枠からはみ出すような戦争観は、ナショナリズムと言う視点からはどのように評価できるのだろうか。その点、左翼のナショナリズムの分析だけでは不十分ではないかと感じられた。
男一匹ガキ大将のナショナリズムがよい
★★★★☆
浅羽道明の功績を語る上で小林よしのりを言論の世界へとナビゲートしたことがあげられると思う。小林よしのりを意識した記述が所々あり、著者なりに小林よしのりをつけようとしている気はする。
本宮ひろ志の男一匹ガキ大将を元に、バンカラ(硬派ドキュン?)のナショナリズムを論じている章がよい。
一風変わった書物。
★★★★★
小林よしのりとの共著もある思想家の作品。
冒頭小林よしのりの遍歴を概説し、ナショナリズム関係人物座標図では、反体制伝統土着型に小林を位置させる(体制伝統土着型が吉川英治、反体制近代理念型が丸山真男、体制近代理念型が後期徳富蘇峰)。
10冊の書物を検討しているが、その中には普通読書人は読まないような、日本の唱歌、日本風景論、日本人論も含まれていて、勉強になった。
この本の特徴は頭の堅い学者なら絶対とりあげないような人々(書物)を挙げていることにつきるだろう。いわゆる反ナショナリズムの立場の人でも、世の中は左であれ右であれ、一部のエリートが引っ張っていくと考えがちである。それに対し、著者は司馬遼太郎が描くようなプロジェクトXの人々すら考察の対象に挙げているのである。
さてこの本は筑摩書房刊「現代日本思想体系」35巻をもとしたという。そのシリーズには他にも「超国家主義」「民主主義」「権力の思想」などがあるという。続編が楽しみである。