魂の行方と意識下の迷宮(解脱は何処に在りや)
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書店で何気なく手に取った。そして、この本が、小生の心をしばらく捕えてはなさなかった。高橋さんは、フランスの厳格で鳴るカトリック、「カルメル会」の修道院に生活し、ここ何年も瞑想修行の日々を送っておられると言う。心の在り方や、意識の深度に関しての省察は、形而上的でもある。私たちを含めて、生きている命の持つ心は、何層かに成っており、その、心を降りて行くと、生きている上で体験・経験した、「自意識」、発生過程で体験した、「マナ識」、そして「存在化」以前の、生とも言わず、死とも言わず、言葉の表現を拒む、「阿頼耶識」に至ると言う。例え、如何なる修行を経ても、「阿頼耶識」の体験は、凡そ、困難な事柄に属するのだと言う。
副題が「ある宗教者との対話」と、あるが、これは「死と生の形而上学」とでも、或いは「意識から見た、存在と無の形而上学」でもあろうか。我々の日々生活している、何気ない、気付きと心の深みに関する、意欲的な探求であり、易しい言葉で書かれているが、実に深い洞察に満ちている。まるで、イグナチィウス・ロヨラの書いた「霊操」の様な、本物の「形而上学」の興奮が伝わって来る様な新書である。この薄い新書のお陰で、井筒俊彦氏の、意識の形而上学ー「大乗起信論の哲学」、岩波文庫の「大乗起信論」まで、読む羽目に至った。
今日と言う日々、人々の心に、重く圧し掛かる閉塞感、或いは、絶望感は一体何なのだろう。日頃、私達が、何不思議なく懐いている、この自我意識は、極めて限定的なものであり、多くの人は、自らの内なる深い宇宙を、意識すること無く生きている。もし、ごく稀に、それに気付く時は、夢を反芻した時だけだ。この新書は、世俗的地位や金銭的資産や銭が一番の宝だとの思いに、確信を懐いている向きには、冷水を浴びせかける本であろう。
私達は、誰でも死に際して、ただ一人、長いトンネルを行かねばならない。「バルド」という中陰を、潜り抜けると云う、中陰とは、この世でも、新たに生まれる次の世でもない、漂っている魂の情態を言うらしい。そして、この中陰を越えて行くと云う事は、余程しっかりとした内面の覚悟と、無への順応なしには、凡そ、迷い続ける困難な道となるらしい。思えば、この様な「存在と意識」の迷宮を探求した人は、何人も居られる、CユングもRシュタイナー、W・Bイェーツもそうであろう。日本にも、弘法大師空海、明恵上人、近代では、井筒俊彦氏や、禅の偉大な導師たちがあげられる。
忙しく暮らし、自己を見失いがちな私達。裸で、生まれて来て、裸で、この世を去る私達。
厳然とした、これらの事実を通じて、この世界に存在する事、その与えられた命の意味は何なのだろう。と、思う。恐らく、高橋さんも、書かれている様に、「生きている内は、その根源的意味は生者に、明かされる事は無い、死ぬと言う事は、生まれ来た所に、帰ってゆく事だ。其処でこそ、生きた事の意味が明かされる。」
感動は何処に有りや?真愛は何処にありや? 老人もそうだが、若い人に、特に読んで欲しい本です。物思う種が沢山詰っていて、こんなに深い本は余り無い。ただ、どんな本にも言える事だが、読み手の内省的深度、潜在意識下の体験が理解を規定する事は、この本も例外ではない。青春の危機にある人、中年の危機にある人、人生の危機には、読んでみる価値は多い本であろう。