映画版とは異なる驚き
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期待以上の内容だった。
一人称の語り口が成功の要因だ。本作は映画版も拝見したが、この小説版はまた異なる魅力を持っている。映画版の客観性に基づく、無駄を剃り落とした簡素な物語が、各登場人物の背景や心情を描くことにより、膨らみをもって伝わってくる。それだけではなく、映画版と小説版の最大の差異は、一人称になったことへの視点の変化、それによる物語性の変化である。
阿部公房の著書『箱男』に、このような一節がある。
「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」
映画版は、主人公イック達に対する愛情もあるが、それ以上、又は同等に見られること、見下され笑われることへの不安、憎悪があった。なにしろ序盤からラストまでの間、イック達は冷笑され続けているのだ。イック達はこの周囲の視線に終始悩まされる。そして、映画を見ている観客もまたこの視線の持ち主である。見られることへの憎悪はイック達だけのものではなく、監督自身のものであろう。
それに対し小説版は、見ることへの愛の溢れた物語である。ラップへの愛、地方都市の閉塞感に苛む主人公への愛、そして青春への愛が最後まで描かれる。作中においてイック達のイタさの表現は映画版のような寒々しさを感じることなく読者の共感を呼び起こす装置となり、読者は冷笑することなくイックに感情移入でき、そこに観客の視線は存在しない。読了後に感じるのは映画版のような衝撃ではなく、清々しさだ。このことにより本作は見事な青春小説と言える。
ただ、本作はノベライズされることにより結果的に青春小説という地点に着地してしまった。映画版の衝撃を知る身としては残念なように思われるが、これは日本語ラップという題材に基づくものであり、入江監督の評価を落とすものではないだろう。むしろ小説版で感じることだが、地方都市の物語性、そこに生きる人々の心の襞が見事に描かれていることに感動した。これは映画版では感じることのできなかった驚きである。入江監督にはぜひ、またこのテーマを扱って頂きたいと思う。
よって、この作品は映画版を見ていない人だけでなく、見た人にもお勧めできる。特に、登場人物に愛着を感じた人、又はどのような映画だったか正直掴めないと思った人にお勧めである。本作を読んだ後にもう一度映画版を見れば、違う驚きに出会えると思う。
ペーパーバックを持って街に出よう!―散文と韻文の幸せな結婚
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映画『サイタマノラッパー』のラストシーンを観たときに、なぜだか『暗夜行路』を思い出した。
『暗夜行路』の終わり方が尻切れトンボなので、あのあと主人公は死んでしまうのか、助かるのか、という読者の心配に対して、志賀直哉はあれでいいんだと断じた(と記憶している)。その記憶と、映画『SRサイタマノラッパー』の終わり方がダブった。たしか志賀直哉は、助かっても死んでも、どっちでもいいという心境に到達したところで筆をとめたのだと云ったはずだ。
そのラストシーン―――。
今日入ったばかりの坊主頭のおどおどしたアルバイトにレジ打ちを教え終えると、「ちゃんとやってよ!」と強い口調で厨房のなかに消えた店の女が、客のいる食堂に戻ってくると、その愚図な使用人が場所も立場もわきまえず何かを叫んでいる。それを見た彼女はさっき云った自分の言葉も忘れて、客に出すビールをのせたお盆を両手に、棒立ちになったままじっと見守り続ける。
そこで彼女といっしょに私たちが耳にするのは、足元に杭を打ち込むようなリズムとともに、それまでの尻尾の切れたような弱々しい言葉とは打って変わった、「この半径1メートル」に根っこをはやしたイックの力強い、ときの声だ。私たちが眼にするのは、それまでポケットに突っ込んでいた両手を出し、空(くう)を叩きつける彼の握り拳だ。
巨大な送電線の下の孤独な闊歩、新聞で読みかじった世界の不条理、寄せ集めの語彙、先輩の死、働かないことの負い目、ライブ崩れの圧迫面接、同級生だった女とのひねくれた会話、心ない仲間の裏切り…………。
ずっとたまっていた、やりどころのない鬱々とした何ものかが、かつて夢を同じくした友との偶然の再会によって、言葉の奔流、一方的な相聞歌となって、堰を切ったように溢れ出す瞬間。するとそれまでイックに背を向け、うなだれていたトムがおもてを上げ……。
私には、もうあれで充分だった。
自分の言葉を「この半径1メートル」の外の世界に求めても無意味だと確信した人間と、同じように外部の社会に強いられて、自分のみじめな亡霊を胸のうちに抱え込んでいる人間との間に、歌(Call & Response)が生まれようとするまでの汗ばんだ時間。
スクリーンが暗転したあとも、この物語を止めることは誰もできないだろう。少なくとも私は、面白半分で夢を追いかけようとしてきた意気地なしを、それでも人間を「ちゃんとやろうとしはじめた」不器用な二人の若者を、自分自身の瞼の裏側に映して、悪夢のようにずっと見続けることになるだろう。なぜなら、さっそうと東京へ出て行ったあのMIGHTYこそ、私だから。
そういう人は至るところにいるに違いない。そう思った。
さて、この映画の小説が出るというのでさっそく注文したのはいいが、だたのノベライズだったらがっかりだな、と思っていた。
昨日届いた。ペーパーバックの手触りが心地よかった。書き出しに驚いた。こうきたか。映画のシーンがはっきりと思い浮かぶ。(映画を観ずに、小説を先に読んだらどうだったのかと思いながら読み進める)。小気味いい改行。おもしろい比喩。ビビッドな描写力。批評性。読みはじめたら止まらなくなった。
そして終わり近く、266ページから文字面(段落の機能と比喩)ががらっと変わった。それまでの散文が韻文へとなだれ込んでいく瞬間だ。もう、これは詩だ! これはノベライズではまったくない。言葉の粒子が際だっている。リズム、リズム、リズム。魂の音が聴こえる……。
もしかすると、このぺーバーバックを持って街に出ることが、一つの表現になるかもしれない。
自分の生き方にあまり強い確信はないけれど、決然とゆるぎなく、どこかの片隅で、自分もまた出番を待っていることを表現するという。
語りが「詩」になる瞬間
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ニートに詩は書けるのか?
風俗店店員に詩が書けるのか?
答えは「書ける」だった。
「半径1mのことを書く」という愚直な方法で。
この小説が優しく教えてくれるのは、
「半径1mのことを見つめなければ、世界と立ち向かう資格がない」
という極めて真っ当な宣言である。
(ゼロ年代に入って薄れているテーゼなのかもしれなく、
本シリーズが広い世代に刺さるのはそれ故だと思う)
登場人物それぞれが、人生に疲れたり、迷ったり、投げ出したり、苦しんだり、
そんな「ありふれた風景」を通り抜ける姿を目撃した我々は、
彼らを笑うことができるのだろうか?
(そもそも、彼らこそが我々の分身なのだ!!)
我々は半径1mを正視しているのだろうか?
そんな問いを突きつけられる。
語りのレベルで1つ指摘するのであれば
268P、それまでの1人称のベタな直喩語りが、魂と融合して文体が崩壊。
その瞬間が詩になるところが素晴らしく
無性に詩集を読みたくなる効果あり。
物のレベルでもう1つ指摘すると、
造本がペーパーブック風なので軽く、文庫感覚で持ち歩けるのも嬉しい。
必読だと思う。