合わせ鏡の飼い主と犬。
★★★★☆
飼い主に似るといわれる作家の犬たちがずらりと紹介されている。犬の個性に作家が合わせているのか、作家の個性に犬が合わせているのか、どちらにでもとれる飼い主と犬たちばかりである。
作家たちが犬とどのようにつきあってきたかを知るだけでもおもしろい。
白洲正子のページにも出ている犬は他人様を噛むことで有名だった。ついには飼い主までをも噛んだ犬である。噛むという「悪い」ことをしたと自覚していたそうだが、反省の色を見せる犬の表情はえも言えぬほど可愛いという。
誉めてもらおうと、犬が得意げな顔をするときも好きだ。なんとも、初やつ、と思ってしまうから、飼い主はつい甘くなってしまう。
作家にとっての犬というのは「無」の境地を作ってくれているのかもしれない。が、しかし、変に「おこちゃま」扱いされていない犬たちの表情は作家との合わせ鏡なのではと思ってしまう。
犬は人間や人生の喩え
★★★☆☆
同じコロナ・ブックスの「作家の猫」の作家のラインナップと比較すると、やっぱ「犬派」と「猫派」ってあるのかなって思う。もちろん、この本で紹介されている作家と犬の係わり方はどれも固有なもので十把一絡げってわけにはいかないんだけど。井上靖の長男が「(父にとって犬は)人間や人生の喩え」って書いている。人との関わり方、生き方が、「犬派」「猫派」、あるいは犬好きな理由、猫好きな理由に少なからず投影されている気がするのだ。ざっくり言って、「犬派」は人に対する期待値が高い。いわゆる性善説。遠藤周作の「犬が人間の心を理解しえないと私は絶対に思わない」って言葉は、冒頭の「犬」を「人」に差し替えても、きっと思うところは変わらないはずだ。、「犬は人と違って裏切らない」なんて文脈も、人への過剰な期待の裏返しだもんね。まぁ、犬好きでも「血統書付きより雑種が好き」とか「懐いたり媚びたりするのは嫌い」とか色々あるわけだけど。
それにしても黒澤明とセントバーナードのレオ、吉田健一と雑種のもるは似ているなぁ。よく、犬は飼い主に似るっていうけど、あれは飼い主が似ている犬を無意識に引き寄せるんだろうね。
この本の特徴として、作家自らではなく、多くは作家の子息、子女がエッセイを寄せている。この、「作家と犬の関係を子どもが語る」って視点の位置が実に面白いんだよな。そこには作家と子の関係や作家の家族観も投影される訳だし、著作からは伝わらない作家の人物像が浮かび上がってくる。「作家の猫」も読んでみようーっと。
犬の本は数あれど
★★★★★
志賀直哉から久世まで、すでにこの世を去った作家たちが愛した犬たち。
作家の風貌と、その犬の風貌を眺めていると、隔世の感にたえない。
これこそが作家の顔なのである。これこそが犬の顔なのだと思い当たる。
作家とはこういう人種だったのだ、日本にいる犬たちだって、本来はこんな顔だったのだ。
作家の一文がまたすばらしい。
作家も犬も自然体のいい写真ばかりで実にいい本にめぐり合えた。
犬と人間はこうありたいと思う姿がこの本にはあふれている。
ほんの何十年かのうちに、失われたいとしい姿がここにある。
様々なエピソードに笑い、そして泣けてきたが、読み終わって、こういう光景は二度と戻らないのだと思いあたり、また泣けた。
貴重写真満載!
★★★★★
孫と犬だけは書斎に入ることを許していた菊池寛。紀州犬にほれ込んで繁殖まで手がけていた近藤啓太郎。「私はある日犬に埋もれて死ぬだろう」と書き残していた久世光彦。撮影が終わると、犬に会いたさにすっとんで帰ってきた黒澤明監督。子供はいなかったけれど、自らを「パパ」と呼んでいた江藤淳。
犬を愛したこれら25人の作家たちの貴重な写真が満載の本である。犬と一緒に写真に収まっている作家たちの表情は豊かで優しい。大好きな犬と触れ合っているとき、人はこんなにもいい表情をするんだなと思う。飾り気のない素顔がそこにある。
そんな写真を中心にして、犬について書いた文章の一部を紹介し、かつ家族に犬と作家の思い出について語ってもらった。巻末に犬の本のリストが掲載されていて、犬好き、読書好きの人々にはたまらないだろう。ほんわかと心温まる一冊。