やさしくさわやかではないモーツアルト
★★★★★
カール・リヒターは入魂のバッハ演奏をする人で,とくに手兵のミュンヘン・バッハ合唱団はベルカントに毒されていない無垢な声を求めて,素人を集めて組織し,ピュアなバッハを演奏するのにふさわしい合唱をつくることに貢献した。大阪のフェスティバルホールで彼らの演奏を実際に見聞きし,その没入を体験した。
モーツアルトというとやや甘い,微笑みのモーツアルトというのが定番かと思う。クラシック初心者は,なんだかインパクトが弱い作曲家のように思うだろう。事実,ぼくもそうだった。そうしたときにモーツアルトに開眼させてくれたのはこの演奏だった。
モーツアルトになじめないという友人たちにも聞かせた。みな一様に「ああ,こんなモーツアルトもあるのだ。もっと聞いてみたい!」という感想だった。
モツレクのベスト
★★★★★
私的には、モツレクのベストであり、カール・リヒターのベストである。
これだけの名演が現時点でレビュー2つというのも、意外と知られていないからだと思われるし、星4つというのも可哀想と感じたので、敢て書かせて頂く。
リヒターというと、バッハやバロック専門と思っている人は、この盤を聴こうとは思わないかもしれない。そんな人に、一度聞いてみて欲しい。
現在のバロック・古典の演奏では「音楽でなく音学をやってんだぜ!おいら」とか、「感傷なんて邪魔なだけさ」と言っているかのような演奏が目立つ。もっと具体的に言うと、ノンレガートがわざとらしく、テンポは異常に速く、デュナーミクとアゴーギクはなるべく少なく・・というような。 リヒターはそんな演奏家らとは、まったく違う。モーツァルトの偉大な曲に自分の手を出来るだけ加えないで、結晶のように構築したくて出来上がった・・そんな演奏に、私には聞こえる。清楚で湿っぽくない。クリアなイメージ。
私とて、ベーム盤やケルテス、ヘレベッへも大好きだ。でも、どれか1枚と言はれると、リヒターになる。
独り行く《迫真のリヒター》
★★★★☆
優美のベーム、迫真のリヒター。
今に至るも高い評価を得ているベーム指揮VPO盤、その名盤と並び立つリヒターのモツレク、とは一部でいわれますけれども、実際のところベーム盤ほどには参照の機会に恵まれない当リヒター盤。
これは厳格で真摯な、正しくバッハ的なモツレクだといえましょう。下の方もお書きになっていますが、「メロディーが絡み合う」演奏、わたしが感じたなりに言葉を換えていうならば、バロック的な、低音を強く浮かび上がらせその上から旋律がじっくりと溶け込む、低音主導型の音楽作りであるように感じられます。その意味でバッハ的、もっといえばバッハのマタイ受難曲的な演奏であるように思います。
表面的な美感などそっちのけで絶えず意志的に弾かれる弦、同じく媚びなど一欠けらも見せないガサついた金管によって、まるで祈るように奏される音を聴くにつけ浮かぶのは、「これはボロ布を着て独りパレスチナの荒野に立つ洗礼者ヨハネか?」という形容であります。巷間評価の高い他のモツレク演奏と比較すると、部分的に縦の線があっていない部分、合唱の足並みに乱れを感じる部分がないでもありませんが、それを補って余りあるモノが、ここにはあります。
例えば多くの演奏がえてして感情に流されがちな「Lacrimosa」、リヒターは速いテンポで自己抑制的に流していきます。ここにあるのは極めて厳しい「涙の日」であり、それは哀しみながらも哀しみに決して流されることのない、孤り行く伝道者的なといえばいいのか、とにかく何かを信じているが故に強い、とても強い人の「涙の日」であるように感じられます。そこがまさしく《迫真》のリヒターとよばれる所以なのでありましょう。
以上のようにリヒターのモツレクは孤独感の極みですが、これこそ、幻想と悪夢に苛まれながら孤独な天才が記した最後の作品K.626の本質、少なくとも本質のひとつ、といえます。
録音は若干荒く、1960年のステレオ録音にしては、冬の乾燥肌のようで余り色気がありません。しかしその録音程度は当盤の価値を減じるものではなくむしろ当盤に一種の「凄み」を加味していると考えます。
簡潔な美しさ
★★★★☆
冬の星空のように厳しく、澄んだ精神を感じさせるレクイエムです。感傷的なところはみじんもなく、硬質かつ簡潔な表現で、力強く直截にモーツァルト晩年の未完の名作を描ききります。さすがにバッハの大家だったリヒターらしく、メロディーが絡み合う部分が、くっきりと浮かび上がっていて見事。ヴィブラートをおさえた女声合唱が美しいです。補筆部分はジュスマイヤー版によっています。