日本のリプロ史を脱イデオロギー化して眺めた好著
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『世界的に見れば、日本のピル解禁と中絶合法化の順序が他の国とは逆転している。それだけでも不思議なのに、しかも両者の合法化には半世紀もの時間差がある……なぜなのか、そしてそれは何をもたらしたのか。』
(↑訳者のブログ http://d.hatena.ne.jp/okumi/20080822/1218531013 より)
日本のリプロダクティブヘルス史(という言い方をしてもいいのか?)には、荻野美穂の仕事などが挙げられるだろうし、オンラインでは渋谷知美の「コンドームと日本人」(http://www.lovepiececlub.com/shibuyaframeset.html )が面白く読めたわけだけれど、こういう海外の研究者のものも「外からどう見えるか」というのが判ってくることが有意義。
ともすれば、リプロダクティブヘルスに関する政治史を「進歩的フェミニズム vs 保守的家父長制イデオロギー」の対立図として一面的に見てしまいがちになるものだけれど、けっしてそういう単純なものでもない、ということを指摘しているのが本書の醍醐味だろう(それはけっしてフェミニズムを貶めるものでもない)。 政治的エリート主義と政治的多元主義をめぐる解説としても、また、戦後リブ〜フェミニズム史としても読める。
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「コンドームが破れてしまったらどうしよう。それでもし恋人が妊娠してしまったら、、、、」という恐怖に苛まれた男性は少なくない。森岡正博の膣内射精暴力論(<検索すれば出てくるはず)に頷いた"仲間"は私だけではないはずだ。
が、そもそも合意の上での共同作業であるはずの行為が、不可抗力によって「男による女への」加害性を帯びてしまう(あるいは潜在的に加害性を帯びている)というのはどうなのか? 頭では納得しつつもどこか釈然としないような?
そういう「加害性」の源泉は、"自らの暴力性や身勝手さに無自覚なバカな同性=オトコたち"にあるわけで、同性として「いい迷惑」であるわけだが、そういう「バカども」と同じ加害性を、自ら意図しないで「たまたま破れたコンドーム」「意図せず漏れ出た精液」によって自分も負ってしまいかねないということの理不尽さに怯え、おののく。。。。。。
といった思考というのが少なくない男性たちに自然に起こってしまうのは、そもそもピルをはじめとする女性が主体となっての避妊法が普及せず、もっぱらコンドームによって「避妊は男性の責任」(しかも避妊成功率は実に低い)とされてしまっていた"日本に特有の事情"下にあるから、、ともいえそうだ。
女性が避妊の主体としてきちんと自立できる条件が整えられることは、男性の自立・解放の条件でもあるのだろう。
本書の視点は、ともすれば「男性の暴力性」を本質主義的に捉えて倫理的に攻撃する方向性に向きがちな考え方(そこには相応の正当性はあることはいうまでもない)に対し、「それとは別に、もっと制度設計として適切な措置があるはずだ」ということに気づかせてくれるのではないだろうか。