十分知的好奇心を満たしてくれます
★★★★★
山本博文「殉教 日本人は何を信仰したか」を読了。自分の信じた宗教の為に死んでいった人々がこの日本にはたくさんいました。武士階級から民衆まで。南蛮から来た宣教師達。皆、自分の信仰を守る為に死を選んだのでした。日本の殉教者は世界的に見ても多いらしい。それはなぜか、作者は探る。
天正遣欧使節関連で読んだ書であるが、彼らが生きた安土桃山時代が理解できる。(天正遣欧使節の記述はなし)その時代背景、何故キリスト教が広まったか、何故命を賭けるまでの信仰が生まれたのか理解できる。その日本的な時代背景・精神構造があったからこその殉教であった。
鎖国・禁教が広まっても、隠れキリシタンとして信仰は生き続いた。その信仰は日本風に変化し、もはやキリスト教とはいえないものに変質していった、という最後の記述は悲しみを伴う。命を賭けて守ろうとした殉教者達との比較、そもそも日本人の信仰はキリスト教ではなかったという記述が、「極東」を感じさせずにはいられない。
いつも神は沈黙した
★★★★★
なぜ,秀吉はイエズス会の布教を禁じたのか。ぼくは,キリスト教が一神教であることが、
当時の将軍絶対とするしそうと相容れなかった。と習ったような気がするが,
此の本を読むと、事はそう単純ではないようだ。何しろイエズス会は貴族的修道士会で
ポルトガルの封建社会でもうまくやってきたところだからだ。
君主として頂点にいた秀吉や,徳川三代は何を恐れたのか。
なぜ,日本にものすごいスピードでキリスト教は根付いたのか
武士の死を賜る思想と、キリスト者の殉教はよく似ている守らねばまらないものに
彼らは命を投げ出す。
一方,民衆は,キリスト教の平等性に惹かれた。何人であっても教育を受け医療を受けることができる。
そして支配者層は、狂乱状態になって殉教者の骨や肉内蔵血のついた衣服を聖遺物として持ち去る
キリシタンに底知れぬ恐怖を感じた。
殉教しても神は何ものも御徴(みしるし)を顕さないのに,いつも神は沈黙しているのに
十教していくキリシタンは,土俗的な神を信ずる江戸の支配者層にになにほどの恐怖を与えたことだろう。
遠藤周作さんの『沈黙』をテキストにして,宗教学,日本史,キリスト史、文学など学ぶ人は、
この本は必携です
勉強になりました。
★★★★☆
元和大殉教、聖遺物信仰、マルチリヨの栞、長崎のほとんどがクリスチャンだった、などなど知らないことが多く勉強になりました。口絵もいいです。
ただ、殉教についての引用のほとんどが『イエズス会日本報告集』からで、信用できませんでした。誰も彼も苦しみに耐え、歓喜して死んだなんてありえるんでしょうか?イエズス会が美化しているとしか思えません。為政者側の史料もあればよかったです。
それと『武士的』というフレーズが何度か出てくるのですが安土桃山時代の武士と江戸時代の武士とでは全然ちがうのではないでしょうか。定義して欲しかったです。武士的エートスと書かれても分かるようで分かりませんでした。
沈黙の検証
★★★★★
日本は、キリスト教の殉教者を大量に出した国。
同じアジアのキリスト教に暖かくはなかった、中国でも、韓国でも、
これほどの殉教者はでていない。
遠藤周作の”沈黙”を史料と照らし合わせ検証しつつ、
なぜ、日本で、これほど大量の殉教があったかを、
つまびらかに、、。
キリスト教の弾圧といっても、
当初は、かなり見せしめ的な要素が強く、
自分から、信者であると明らかにしなければ、殺されなかったものを、
自ら明らかにして、嬉々として殺されていった。
表向き、信仰を捨てたとしても、
信仰をもって、地をはって生きて行くのを、
潔としなかったのだろう。
武士道精神と比較して論じていた。
そして、”神の沈黙”を問題視するのは、現代人の考え方であり、
当時の人々にとっては、問題ではなかったのだ、、という事も、
ちょっと目の覚める思いだった。
時代による、考え方の違いまで、検証できるとは、、。
これからも、神は文字、言葉としては、沈黙するだろう。
どこに神の言葉を探し、納得し、
信仰し続けるのか?
嬉々として死に至ったキリシタン
★★★★☆
斬首の際、首を処刑人に突き出す。火あぶりの時、火の付いた小枝を自分の元へ引き上げる。禁教初期、日本のキリシタンたちは、自分こそがキリシタンだと取締りの役人に名乗りを上げ、殉教することを願い出たし、弾圧が完成するころの水責め、穴吊りなどの阿鼻叫喚の拷問にもひるむことはなかった。老人から子どもまで、「棄てる」と一言言えばすぐ縄を解かれたにもかかわらずである。この死に至る心性とはなんなのかを本書は探っている。
著者も驚いているのは、日本人ばかりではなく、宣教師たちも死を従容として受け入れている。キリスト教に対する組織的弾圧は、ローマを除けば日本くらいとのことだ。本書を読んでいると、キリシタンたちの尋常ではない意志の強さを感じる。この意志の源泉を著者は当初、武士的エートスにあると見ていたが、文献研究が進むにつれ、ヨーロッパと同様、聖遺物を初めとするキリスト教信仰のレベルが高い段階に到達していた、と著者は見る。
1次資料に依拠して書いているので。元和大殉教、24聖人など臨場感豊かに書かれている(逆に言えば、臨場感を感じる殺害シーンが続くので、恐がりな人には勧めない)。文章は極めて平易ながら、「江戸初期キリシタンの心性」という高度なテーマもしっかりフォローできている。もう少し突っ込んだ分析があってもよかったかも知れないが、本書の記述である程度はつかめる。