「はじまってしまった戦争」の恐ろしさを
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近現代史の第一人者が、自らの体験談としての「東京大空襲」を語る事と共に、当時の客観的な状況を踏まえ、悲惨な「戦争」をなくすためにはどうすれば良いかを語りかけてきます。
体験談とは言うものの、文章に気負いは見られず、冷静な第三者的な語り口になっています。
それは作者も語っているように「言葉にだしていうと、やや自慢話というか、勇敢な少年のように自分を美化して語って」しまうのを極力避けようと言う試みであり、そうしたことが「戦争そのもののあやしげな魔力」と結びついてしまうことを避ける意図もあったのでしょう。
更に、自ら冷静な第三者たらんとするためか、自らの恋愛や父親の愛人の話も挿入しています。
そうした冷たい視線を通した語り口によって、この本全体があたかも「小説」であるかのような趣も持っています。
しかし、その「冷静さ」が、そこに「客観的に」描写されている戦争の被災状況を一層悲惨なものにしており、胸に迫ってきます。
一方、作者は、「被害者」が「傍観者」や「加害者」になる危険についても指摘しています。
この本は、「はじまってしまった戦争」の恐ろしさを語っているとも言えます。
その前に何をなすべきか?
これが問題なのだと語ります。
そしてそれは、「自分たちの生活のなかから“平和”に反するような行動原理を徹底的に駆逐する」ことだとします。
常に戦争について考え、そうならない様に行動することしか、「戦争」は防ぎえないと言うことでしょうか。
筆者の背骨を見た。
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半藤一利といったら、昭和史もの、である。
金融恐慌から15年戦争に突入していった日本という国を書かせたら、一番冷静な筆致で書ける人だと思う。
その人が書いた自身の戦争体験記だ。10歳そこそこで戦争が本格化し、1945年の東京大空襲を迎える。向島に住んでいた筆者は命からがらで逃げ抜ける。その原体験が今に至るまでの仕事の原点にあるのではないか。
何で、こういう不条理なことが起きるのか、という。
カーチス・ルメイに指揮官が替わって、日本への空爆のスタイルも一転する、そのあたりを探る下りは、面目躍如だろう。何でこんな目に遭わなくてはいけなかったのか、という1点の疑問を解決するために、営々たる研鑽を積んできたというべきか。
あの焦土と化した東京を直視した者として、戦争につながるような1点の曇りも見逃さず、許すまいという決意、それを振り払わなくてはいけないという気構えの原点を見た気がした。
筆者はどこかで得意げな英雄じみた話になるのが嫌で触れてこなかったテーマだという。でもこの本で書いたことは、それまでの筆者のいろいろな本で書いていることの基調低音にほかならない。
そこは歴史探偵と自称する筆者のことだ、勤労動員先での女学生との儚い恋物語あり、父君の特殊関係人の話ありと、ゆるめるところはゆるめての話の展開は間然とするところがないのはさすがというべきだろう。大上段に振りかぶった本とはひと味違った、この筆者の持ち味の出たいい本である。