欧米に並び豊かで幸せな先進国日本に生まれて良かった、赤ん坊の三分の一が5歳になる以前に死亡する貧しい国へ支援の手をという、国際政治・経済学者、巨大企業、有名作家、職業詩人の浅はかなアピールを我々は宗教のように信じてきた。よく言われることだが「何が難しいといって、自分の文化を理解することほど困難なことはない」のである。
自分が生きている社会の「幸福感」や「正常さ」を根本的に疑う視点がなければ、総体的に、そして、相対的に、日本社会の現実、そして、その中で生きる住人の心の内を語ることはできない。それは、自分たちが美徳、成功、幸福そして正常と信ずる価値体系の中に生きる人々にとっては不快で理解不能な所業なのである。
突き詰めた言葉の可能性への挑戦、特に、日本語のアクロバティックな駆使によって、実は意外に多いかも知れないこの社会の歪みの中に生きる異邦人たちの告白を綴ったこの作品は、既製の産業商品としての「詩」を美しく破壊している。三角みづ紀は、現代医学の視点からは「病気」を患っているかも知れないし、彼女自身である「詩」が書けなくなった時、この世を去るかも知れないが、そんなことは、この詩集と何の関係も無い些事であろう。
繰り返したであろうリストカット、嘔吐、自殺への夢想。
それらへの自己憫憐に満ちた詩は、あるものたちに強烈な感銘を与え、あるものたちには猛烈な嫌悪を与えているらしい。
当然のことながら僕は前者である。
だがそれは、傷を舐め合うような“甘っちょろさ”からだけではない。
むしろ、生きてる実感を求め悶絶する彼女を、冷めた目で観察する“冷酷さ”からかもしれない。
それと、彼女が見せる、日本語というツールの果てしなき可能性や、狂おしいまでの美しさ、彼女が手に持つ刃物にも似た、ギラギラした言葉の鋭さへの驚嘆からである。