良くも悪くも「古典」
★★★★☆
地理学の分野以外では、レルフといえば1977年の本書、そして「没場所性」しか取り上げられないのが常だ。そして大抵次のようなタイトルの下に紹介されている――没場所性の克服、没場所性に抗して、場所の復権、云々。
そりゃぁある視点から見ればレルフのいう没場所性というのは確実に世界を覆い尽くしていくように見えたのだろう。たとえば「マクドナルド化」や「グローバリゼーション」といった言葉も同じような視点から世界を見据えている。
しかし没場所性と場所性、という単純な両極設定はすでにレルフ自身によって自己批判されていることでもある。彼(現在はTed Relph名義が多い)いわく、ベトナム戦争終結前後に書かれていた本書には、モダニズムと伝統という、今から見ればどうしようもなく単純な二分法が背後に隠されていた。現代は、少なくとも認識論的にはポストモダン、後期近代などさまざまな「モダン以降」が氾濫する時代であり、そのような時代に没場所性という、場所への感覚にこだわりすぎた概念を使うのは慎重にならねばならない、と言う。特に没場所性と誤解されがちな近代におけるモノや人の流動性の激しさが場所の感覚を損ねることはありえない、とまでレルフは言っている。
これはミクロなレベルから人々の実践や感覚を研究してきた文化人類学のほうからも提出されてきていた異論だった。
とはいえ、今となってはあまりにお気楽な近代批判・克服の道具と成り果てている「没場所性」や本書ではあるものの、レルフ自身が指摘しているように、たとえば本書で見落とされていた政治的側面、あるいはアイデンティティや場所の所有と密接に結びつく権力や排除的暴力、などといった観点から没場所性を新たな概念として構築していくこともまた、不可能ではない。
イーフー・トゥアンとともに70年代を風靡した現象学的場所論は、80年代後半以降、後期近代という自覚とともにルフェーヴル、ハーヴェイやソジャなどのマルクス主義的空間論によって押され気味の感はある(日本ではちゃんとした場所系現象学の本や翻訳が少ない。ようやく最近『場所の運命』が出た程度)。とはいえ、上記のように、批判的に、または生産的に読むことが今でもできる、そういう意味で『場所の現象学』はれっきとした「古典」であろう。