私の問題意識で印象に残った記述を抜書きしてみる。○東京湾は近代史以来の言葉をつかって言うのは不適当。総、武蔵、相模の文字をとって「総武相の内海」と仮称した。この言い方で言うと伊勢湾も「三尾勢の内海」と言ったほうが良い。○ゴホウラ貝の腕輪で分かったが、丹後と尾張が弥生時代に結ばれていた。○瀬戸内海は無数といっていいほど様々な海峡がある内海である。2~3キロ行くと海峡があり時刻で流れが違う。そういうことを知らないと、レーダーなどを備えた船でも座礁したりする。○縄文人は八丈島まで行っていた。松江市の小学校の先生が丸木舟で隠岐の島!まで行く実験をした。早朝にでて、夕方に着いた。○漁村の子供たちは父親から徹底的に叩き込まれるのは先ず『山当て』の技術、何月ごろはどういう潮が流れるか、風はどこから吹くか覚える。○日本海沿岸は太平洋沿岸と違って、海岸近くに秀麗な形の独立した山があり、それが港の目印になっていることが多い。鳥取県淀江町の高麗(孝霊)山、島根県太田市の三瓶山、山形・秋田県境の鳥海山はその代表例。