時代と共に教養の意味は変わるのだから、これまで教養だと見なされてきたものが必要とされなくなったのは時代の流れだと論じることも可能だろう。しかしそのためには、かつての教養にかわって、では何が新しい教養たりうるのかをきちんと定義しなくてはならないだろう。人文学的な教養がもてはやされた時もあれば(今でもある)、福沢諭吉のように、明治期以降に顕著になった新興の社会科学―政治経済学を斡?しい教養とする教養論もあった。現代における教養とは何なのか。
知識が推論を導くための不可欠の材料であるにも関わらず、今知識は行き場所を見失って雑然とした状態に置かれたままになっている。それに秩序を与えることが本来の教養教育の意味であろう。価値や哲学に対するニヒリズムを超えるための新しい教養像はまだ見えていない。