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どこにでもある場所とどこにもいない私

価格: ¥1,296
カテゴリ: 単行本
ブランド: 文藝春秋
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“他者”も“自分”も存在しないニッポンを描く ★★★☆☆
 コンビニ、居酒屋、カラオケボックスなど、そこに人は集まっているが相互の関係性が薄い、つまり“他者”のいない、現代日本の象徴的な“場所”を舞台とした短編集。“他者”が存在しないということは“自分”も存在しないということである。主人公の内面と外界は溶解している。それを示すかのように、主人公は眼に映るものを自動書記のように淡々とスーパーリアリズムに綴っていく。そこには情報量以外の意味は無い筈だが、元々文脈の存在しない文章の中に「タンパク質」とか「虫」といった単語が突然挿入さると、日常風景が病的で存在の危ういものであることに気づかされる。

 主人公と登場人物の会話もそうである。それぞれが一方的に喋っているだけで実は対話になっていない。それ以前に主人公は自らが喋っているという現実感すら希薄なのだ。

 “他者”も“自分”も存在しないとしたら均質で平等かと言えばそうでもない。表面的には同じに見えても、細かい差異による巧妙な“クラス”が存在している。もはや多くの人々が共有する“希望”などどこにもないということを作者は示している。1986年のの著書「走れ!タカハシ」では、相互にはまったく関係のない複数の人間が“タカハシ”によってささやかな希望を見出した。しかし本書に出てくるテレビ画面の中の桑田はただの風景でしかない。希望が“海外”や“ワイン”にしか見出せないニッポンはとても悲しい。
 作者はここ数年同じ主題を同じ手法で書き続けているが、いささかその手練には慣れがみられる。作者自身も閉塞感からの脱出、希望を求めているのかもしれない。

ポディティブな考え方 ★★★★☆
個人的な職業上,私は,この本が,最近の学生に読んでほしい内容を含むものだと感じました。コンビニという話の中の,「本当の支えになるものは自分自身の考え方しかない.....」などがそうです。

しかしながら,「カラオケ・ボックス」は重いと感じました。村上さんと同世代の方々の18歳人口における大卒の数はまだ少なく,中卒や高卒の方が多かったことは純然たる事実です。この主人公とその友人は,中卒と高卒の方です。「高校の教師が,大田区の羽田のそばの町工場の状況を知らないのに,そこは良い,といって就職させる」そんな時代だったのです。だから,俺は騙された!とは本音なのです。
私が「いやだな」と思うところは,
著者自身が「俺はそうならなかった」と言わんばかりのところです。

う~ん。 ★★☆☆☆
短編集で読みやすいとは思いますが、
あまりにも話を作りすぎている感があって私は感情移入できませんでした。
作者の方はこの年代の人はこう思って生きているのだろう、と考えられて書いたのかもしれないですけど、私はあまり共感できませんでした。

自分では物事をけっこう深く考える方だと思ってますが、この中の主人公たちはあまりにも機械的すぎる…というか、そう簡単に物事割り切れないんじゃない?みたいな(苦笑)
ぼーっとしてる時とか、暇な時に読みたい本です。

弱い光を放つ希望を感じた ★★★☆☆
現実の日本のどこにでもある場所を舞台にした短編集です。
現代の閉塞感や個人の孤独感がしっかりでていて、
ともすれば少し暗い小説かと思えるのだけれど、
短編の主人公たちは、手が届くか届かないか、
または、実現するかしないか判断微妙な希望を持ち抱え、
それぞれの旅へと出発しています。
そこには、最初にあると思われた暗さはなく、

弱い光の希望が残ります。
わたしたちの誰でもが、この中の登場人物になりえる
リアルさをもっていたし、それだけに、そこで感じた希望をも持ちえて
自分を旅立たすことができるかもしれないと思わせるものがありました。

自立の概念 ★★★★☆
 久しぶりに、著者の佳作と呼べる作品が発表された。
 時代の変わり目、社会経済の混迷の中で、いかに日本人が
<個人>を確立していくか、というのは著書のかねてからの
テーマであるが、これら短編のうち「居酒屋」は、確立された
<個人>と共同体の中の<依存>を対比させ、日常的な場面で
視覚・感覚的に浮かび上がらせることに成功した秀作だ。

作中の西麻布のクラブに来た<個人>としての「男」は、
『エクスタシー』、『メランコリア』のヤザキに通じ、
確立された<個人>は、孤独を抱え込む厳しいもの(作者は
これを、その男との間に目に見えないガラス板があるよう、
他人、と表現している)であるが、それでも前進する、
という女性主人公の姿に感銘を受ける。