主人公と登場人物の会話もそうである。それぞれが一方的に喋っているだけで実は対話になっていない。それ以前に主人公は自らが喋っているという現実感すら希薄なのだ。
“他者”も“自分”も存在しないとしたら均質で平等かと言えばそうでもない。表面的には同じに見えても、細かい差異による巧妙な“クラス”が存在している。もはや多くの人々が共有する“希望”などどこにもないということを作者は示している。1986年のの著書「走れ!タカハシ」では、相互にはまったく関係のない複数の人間が“タカハシ”によってささやかな希望を見出した。しかし本書に出てくるテレビ画面の中の桑田はただの風景でしかない。希望が“海外”や“ワイン”にしか見出せないニッポンはとても悲しい。
作者はここ数年同じ主題を同じ手法で書き続けているが、いささかその手練には慣れがみられる。作者自身も閉塞感からの脱出、希望を求めているのかもしれない。
しかしながら,「カラオケ・ボックス」は重いと感じました。村上さんと同世代の方々の18歳人口における大卒の数はまだ少なく,中卒や高卒の方が多かったことは純然たる事実です。この主人公とその友人は,中卒と高卒の方です。「高校の教師が,大田区の羽田のそばの町工場の状況を知らないのに,そこは良い,といって就職させる」そんな時代だったのです。だから,俺は騙された!とは本音なのです。
私が「いやだな」と思うところは,
著者自身が「俺はそうならなかった」と言わんばかりのところです。
自分では物事をけっこう深く考える方だと思ってますが、この中の主人公たちはあまりにも機械的すぎる…というか、そう簡単に物事割り切れないんじゃない?みたいな(苦笑)
ぼーっとしてる時とか、暇な時に読みたい本です。
弱い光の希望が残ります。
わたしたちの誰でもが、この中の登場人物になりえる
リアルさをもっていたし、それだけに、そこで感じた希望をも持ちえて
自分を旅立たすことができるかもしれないと思わせるものがありました。
作中の西麻布のクラブに来た<個人>としての「男」は、
『エクスタシー』、『メランコリア』のヤザキに通じ、
確立された<個人>は、孤独を抱え込む厳しいもの(作者は
これを、その男との間に目に見えないガラス板があるよう、
他人、と表現している)であるが、それでも前進する、
という女性主人公の姿に感銘を受ける。