20世紀の世紀病たるマルクシズムが持った磁石のような魅力
★★★★☆
海外では、この種の追求は、執拗に時代を超えて行われていますが、日本の場合はそのような作業はまれです。その点でこれは稀有の作品です。著者の情熱と歴史の”真実”への接近の努力が、不思議な魅力をかもしだしています。しかし、1990年代初期に明らかになった新資料をもとにした、著者の長年の探索の結論は、実に散文的なものです。1930年代のソビエトの粛清の政治的な状況の中で、異なった文脈で日本から持ち込まれた一編の党内の噂が、当初想定もしなかった意味合いを1930年代のモスクワの共産党コミュニティの中で持ち、結果としては壊滅的な影響をモスクワの日本人共産党員グループに与えたということです。革命の総本山モスクワでで繰り広げられる光景は、聞こえのいいスローガンとは異なり、つまるところ、不信の雰囲気の中での、お定まりの権力闘争です。結末は、巨大な悪意の欠如にもかかわらず、悲劇的です。当時の状況では、モスクワで日本人であること自体が、危険であったわけで、生き残ったものも粛清されたものも、大きな構図の中では、”誰を日本における残置謀者に選択するか”というソビエト共産党の気まぐれな決定の中での将棋の歩(pawn)でしかなかったというわけです。最後の岡田嘉子と宮本顕治の間の時を越えての不思議な”対話”も、個人的な悲劇性は別として、大きな構図の中で操られた”善意”の喜劇性のみが浮き彫りにされてしまいます。マルクシズムが、1930年代の日本の知識人や労働者の先鋭的な人々にたいして持った磁石のような魅力と、その奇妙な観念への傾倒が論理的にたどり着いた破滅の終着点は、モスクワでの片山潜の宮本百合子へのネチャーエフの翻訳へすすめに象徴的に予言されていたわけです。”反戦、反帝、平和”の魅惑的な言葉にもかかわらず、なんという壮大な無駄だったのでしょうか。