インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

書く―言葉・文字・書 (中公新書 2020)

価格: ¥799
カテゴリ: 新書
ブランド: 中央公論新社
Amazon.co.jpで確認
畏怖の念さえ感じる、「書」をめぐる崇高な哲学・文明論! ★★★★★
  著名な書家・石川九楊氏の名を初めて知ったのは、世界的に著名な経済学者である青木昌彦氏による彼の本『筆蝕の構造』への書評を通じてだった。このたび石川氏のインタビュー記事が掲載された「週刊読書人」を読んで思わず開眼、さっそくそこで言及されていた新書を購入した。帯にある「書の底知れぬ深み」とはこういうことかと少しだけ理解した自分に今は満足だ(他のかたも私と同じような心境でレビューを書かれたのではないか)。

  たとえば「文は文字からではなく、筆蝕からできている」といわれてもピンとこない。だが著者の造語であるこの概念にこそ「書」の根幹の思想が潜んでいる。石川氏によれば、「筆蝕とは、書き進めていく筆速(速度)、筆画の紙に対する深・浅(深度)や角度の直・側の傾き(角度)に起因する、いわば筆勢や筆致や筆圧の全体を指す言葉」(38頁)と定義される。端的にいえば「書きぶり」ということらしい。インタビュー記事でもこの点が特に強調され、さらには「縦書き」と「横書き」の違いの構造的意味とその宗教的背景など、そこには「書」をめぐる氏の哲学・文明論が説得的に記されている。なるほど元来は「都市化」・「市民化」を意味する「文明」という言葉は、「文字によって明るみに出す」との含みが東アジアでは重要視されるそうだ(96頁)。「勉強になる」という以上に、心理的にはもはや「感銘の域」に達している。

  著者が有益ではないかと示唆する「書字による作文過程」と「ワープロによる作文過程」との対比の図式化(22・3頁)も(なんとなく)分かったような気になる。そこでも「筆蝕以前」は両者において同じでもその後は全く異なるプロセスを歩んで「文」は成り立ってゆく(次の段階での「筆蝕」の有無がやはり決定的だ)。「書」が紛れもなく多くの<ドラマ>を秘めていることを痛感させる、初心者にも通じる新書であり、新たな境地へと巧みにいざなう名著だ。
かく は「書く」「描く」「欠く」「掻く」 ★★★☆☆
「書くはなにか?」というのを書家である筆者が、書の歴史を交えつつ持論を展開している。

日々、文字と対峙し研鑽を重ねているのだろう、文字や書に対する洞察は鋭い、
書くという動作は限りなく細分化され、身体の囁きを受信し、道具と身体と心が一体となり「書」が立ち現れる。
身体を伴なう流れはイメージしやすく、読んでいて心地いい。

しかし「書」に対する意味づけは根拠が薄く、論理の飛躍がみられ、独善的な解釈が多い。

そのなかで、面白かったのが、
(1)かく は「書く」「描く」「欠く」「掻く」と引っ掻く、壊し傷つける、区切ることをである。
(2)はなす は「話す」「離す」「放す」身体を用いて意識を表に出すこと。

(1)をもう少し考えると、
人が自分を意識するために「書く」ともいえるだろう、
混沌とした区切りのない「自然」と、自分という意識(自我)を分断するために、世界を欠き、引っ掻き、区切りを入れ続ける。
それに対し文字を持たない文化の人々は、「自然」と自分との境界線は薄いと思われる。

我々が必死に「書き」続けるのは、「自分はここにいるんだ!」と「自然」に抵抗しているようにも思えてくる。
「書く」ということを哲学にまで高めた凄み ★★★★★
「書く」ということが、(キーボードを)「打つ」ということとほぼ同義になりつつある現在に警鐘を鳴らすがごとく、一文字一文字、一画一画、一瞬一瞬と、手を使って文字を書くということを、ひたすら深掘りしたのが本書。
もはや「書の哲学」と言っていいほどの内容。
すごい本です。

「文字を彫るということは、地球を傷つけるという原罪」
「縦に文字が書かれるのは、そこに重力があるから」

・・・こんな、今まで考えたこともなかったような「書」についてのスリリングな論が、大げさでなく2、3ページに一つはあるという印象だ。

といっても、まったくもって堅苦しいというわけでもない。
「字は整いすぎていてもよくない」ことを挙げるのになぜかマー君とダルビッシュの例を挙げたり(先生、野球がお好きなんですね)、あるいは最近活躍している現代風の書道家に対してのコメントになると、なんだか急に大人気ないコメントになったり・・・。
決して、書を知らなければ読みこなせない、というものではない。

それにしても、これを読んでしまうと、今こうしてワープロで文章を書いていることがなんとも軽々しい行為に思えてしまう。
読んだ後、ふと自分自身の手を使って字を書き、それをしみじみと眺めてみたくなる一冊です。
「永字八法」のマテリアルな触感と悠久に届こうとする凄み ★★★★★
石川九楊には同工異曲(に見える)の啓蒙書も多いが、その主張が一見反時代的と捉えられかねないゆえに、この実はラディカルな主張を広く訴えかけるためには、こうした刊行も十二分に意味のあることである。評者は石川の本を読むたびに唸らされること一再ではない。
「ラディカル」という語は、昨今いささか曖昧なものとなってしまっているが、冗談ではなく石川の問いが人間存在と思想にとって最も根源的(ラディカル)なものであることは、本書の緒言を一読すれば明らかではないだろうか。

まあ評者のゴタクはともあれ、本書の19ページから21ページにある書の「永字八法」の記述を読むだけでも本書を披く価値はあろう。これは「永」の字の八画の書字のそれぞれに書の基本が尽くされているというものである。「永」の字は書聖・王羲之の『蘭亭序』冒頭の字であるという。

平易で衒いのない文体ではあるが(“怒り”は散見される)、マテリアルな議論が人間精神と自然の悠久の連関に達するような、畏怖さえ抱かせる文章である。

書とは、触覚に根拠をもつ筆触的表現行為である。 ★★★★★
職場の書類は全てデジタル。家庭でも、老いた両親にさえメイルで会話。下手な手書きに代わって、綺麗なPCフォントで、手軽に書けるのですから、誰でもデジタルに靡きます。そんな時代でも、何故か毛筆で書く「書」が気になります。失われてゆく伝統技芸への郷愁でしょうか。せめて字ぐらい綺麗に書く技を習って、自分流の書を見せたいためでしょうか。そのように、書は、そもそも字を美しく見せる技術(テクネー)なのか。あるいは技術よりも広い人間の本質的な表現活動なのか。そんな根本的な問が本書の主題です。

論の進め方は、先ず「書とは、××である」という命題を提示して、演繹的に筋を運んでいます。そのため切り口上に聞こえます。その上に、新たに着目した現象を特色付ける為に馴染みのない言葉が使われます。また多義的な言葉を頼りに、現象の違う局面を露にして論を広げているので、単なるレトリック風な言葉の羅列に見られます。おまけにワープロ変換への反対も言及されています。一見して取り付きにくく、敬遠されそうです。

本書では、文を書くという行為が、生成する時間的経過に沿って、独立した細かな要素に、分析されています。そこから書の根底を、なまの触覚にまで戻って考えています。具体的で刺激的です。さらに個人心理的過程の分析だけでなく、楷書の書体史上の意味など歴史的過程の分析もされています。独創的です。それらを単に理屈だけでなく、中国や日本の有名な書の実例を示しながら、丁寧に解説していて誰でも理解できます。当初は唐突に思われますが、読み終わると、「書とは逆から読まれた文学、ネガの文学である」という著者の命題が、無理なく納得できます。抽象的な命題部分にひるまずに懐に入る気持で、説明部分に飛び込めば、現実感が濃い誰にでも判る具体的な世界に入ることができます。書の本質論だけではなく、書の本来の見方も教えてくれます。目から鱗が落ちます。